無責任な傍の目から見れば、それは、下卑た忍び笑いで語られる情事のスリルにすぎまい。世間に名も通った中年の文芸評論家が、妻子もある身で、若く美しい旅客機のスチュワデスと恋に落ちた――。悪友たちが知れば、酒場で欠席裁判のサカナにする話だ。野郎あんな虫も殺さねえ面で案外手は早かったな。ともかく、うめえことしやがった。ただ、細君にめっかったらコトだぜえ。
果せるかな、当の妻は夫の不貞を見抜いてしまい、評論家は騎虎の勢いで離婚へ踏切る。しかし、ことは甘く進みはしないのだ。女の心は飛び去り、そして夫婦は……最悪の結末で新聞種となる。――悪友は、また杯を間にして言うに違いない。野郎、大体ヘマだったよ。馴れてなかったな。オレだったら完全にシラあ切ってみせたなァ。だけど気をつけなよ、おめえ。そして男たちは、まわって来もしない色っぽいケースの予感に、うひひひと声を揃えて忍び笑うのだ。
笑ってもいい。それは或る意味で、世間から笑われて仕方のない事件だ。分別をもって行動すべき三人の成年インテリが、三人とも理性を失った、という点で。しかし、とフランソワ・トリュフォ監督は彼の新作「柔らかい肌(ラ・ボー・ドゥース)」(註)で言う。責任のない世間は笑え、しかし、この当事者三人の、いったい誰が、事件に巻込まれたあと、笑えたろう、と。