『あの世がわかればこの世が変わる』
[著]中島孝志
[発行]ゴマブックス
だれもあの世など見たことがない。見た人は帰ってこないからだ。
なぜ帰ってこないのか? よっぽどいいところだからかもしれない。
だが、本書では見た人が何人も登場する。正確には「かいま見た」、と言うべきなのだろう。そして、あの世をかいま見た人は強くこの世を生きている。あの世でまるで魂を交換したかのように、いままでとはぜんぜんちがう人間になっている。
あの世がわかればこの世が変わるのだ。あの世のおかげでこの世の生活ががらりと変わってしまった。
生活とは「生命の活性化」のことである。生命が宇宙の根源で生き生きと活性している状態をさす。
「人はパンのみにて生きるにあらず」と言ったのはイエス・キリストだ。「しかしパンがなければ生きられない」と言わなかったのは悪魔のミステイクだったかもしれない。物質と精神。このどちらが欠けても活性化しないのが人という生命体である。
二十世紀は、物質文明が最高潮に達した。それに反して、精神文明は致命的なまでに遅れをとってしまった。
科学の発達は人類に画期的な利便性をもたらした。これが幸福の大きな要因であることは否定できないが、これだけが幸福である、といつの間にか科学の発達が自己目的化されてしまったように思える。
精神文明がもっと発達していたら、科学文明はこの体たらくではなかったはずだ。科学者たちはもっとあの世を見なければならなかった。
かつて、宗教と哲学が人間の生き方を示す役割を担った時代があった。時には、宗教が科学を弾圧する正義をもった時代も確かにあった。その正義の前では、ガリレオもコペルニクスも自己の科学的なる心を主張することをはばかられ、ブルーノにいたっては、火炙りによって処刑されてしまった。
現代という時代は、科学が宗教に代表される精神的なるものの見方を否定し、攻守、ところを入れ替えてしまった観がある。こうして、科学が人間行動に多大なる影響をおよぼすようになった。
それでは、科学の発達につれて、科学は段階的に神に近づくのであろうか。それとも、究極において、科学は神になり代わるのであろうか。残念ながら、科学は、科学だけのために発達することを以て本分とする。科学があと百倍発達しても、人間は核を開発し、ミサイルを飛ばし、戦争をしているにちがいない。どれだけ緻密なコンピュータを開発しても、核のボタンをコンピュータ自らの意思で止めることはけっしてできない。
サルがボタンを押してもミサイルは飛び、核戦争は起こる。それが科学の本質である。
ヒトはあくまでもサルとは違う。人類は科学を覇する精神の発達を促進しなければならない。その意味で現代は理性が問われる時代、理性の危機の時代であるかもしれない。
本書は、すべての生命体のなかに「敬虔なる潜在能力(可能性)」が存在することを自ら気づき、その能力を引き出し、フルに活性化されることを願って執筆されたものである。
物質、動植物はもちろん、人間においてもそれぞれもっている生命の本質を最大限に活性化するには、その単独のパワーのみで引き出されるわけではなく、それぞれを取り巻く環境、条件などを含めた相互関係、いわば全体を包括したホリスティックな情報のなかで活性化されることがわかった。しかもその活性因子としてもっとも重要な役割と機能を果たすものが〝愛〟であることも明らかにされた。
詳しくは本文に譲るとして、本書の概観を前もって眺めておくと、第一章では、地球を構成し、あらゆる生命の基本になっている元素や物質が生命と具体的な心をもっていることを明らかにし、物質が自己の生命を活性化するため、いままでいかなる戦略をとってきたか、地球をおもなケースとしてその事実と歴史をまとめた。
第二章では、有史以来の生命のスタート順序に則り、地球、物質から植物のもつ生命へと対象を転換し、植物が自己の生命活性のために、どのような心と知恵をもち、戦略を練ってきたのかを具体的な事例で説明した。
第三章では、動物のもつ生命と心の特徴を認識した上で、いよいよ人類、人間の生命と心の活性化という核心に迫った。
第四章では、人体のメカニズムを明らかにすることによって、病気(精神的疾病も含む)を克服する能力が発揮される原理について考察した。
第五章では、臨死体験、心霊治療、超能力などを実際に体験調査し、人間の心と精神の可能性、潜在能力の開発などについて具体的にまとめた。
本書をまとめるにあたり、たくさんの方々に貴重なご意見とアドバイスを賜った。ご多忙の中にもかかわらず、時間を割いてご教示いただいた方々に対して心からの謝意を表したい。
なお、本書は一九九三年にダイヤモンド社から出版された『能力が目覚める瞬間』を改題、新たに編集したものである。当時、インタビューに協力していただいた方々の肩書きと名称はいずれも当時のままである。
中島孝志