読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-1
kiji
0
1
1033090
0
心霊怪奇
2
0
1
0
0
0
0
エンタメ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
ピアノ狂奏曲

『心霊怪奇』
[著]新倉イワオ [発行] 河出書房新社


読了目安時間:12分
この記事が役に立った
1
| |
文字サイズ

・個人教授との禁じられた恋


 昭和二十二年といえば、まだ戦後の余韻(よいん)が尾を引いていた時代ではあったが、畑礼子さんは音楽学校のピアノ科に在学していた。

 戦時中、多少の中断はあったものの、幼いころから習い始めたピアノの力量はその素質を存分に伸ばして、在学中から天才と騒がれ、将来を嘱望(しょくぼう)されていたのである。そのうえ、裕福な家庭環境と育ちの良さに加えて、美しく愛くるしい容貌(ようぼう)は、生徒間だけではなく、若い講師や助教授たちからも注目の的となっていた。

 彼女を直接指導していた河合剛は、他校に籍をおく三十四歳の新進気鋭の講師であり、専門はピアノではなく、学校ではおもにオーケストラの指揮法を教えていた。彼は、礼子さんが旧制の女学校に入ったころ、音楽好きな彼女の両親が知人の紹介により、個人教授として依頼したもので、礼子さんもまた彼に対して尊敬と信頼をもって、技術を磨いてきた。

 河合はすでに妻帯の身であったが、一台のピアノを前にして、手を取るように技法を叩き込む情熱は、いつしか礼子さんに対する異性としての情熱もあわせて燃やし始めていたのである。

 音楽学校の入学試験は、非常に高い得点でパスすることができ、芸術上の苦楽をともにしてきた師弟は、手を取り合って喜んだ。

 礼子さんがちょうど二年に進級したときである。河合がその音大の講師として迎えられることになった。両親も大喜びで、さっそく自宅でパーティーを開き、彼と娘の芸術に対し心からの祝福を贈ったのである。もちろん、その後もかわることなく、個人教師としての二人の関係は続いていた。

 そのころから礼子さんも河合に対して、教師として以上の感情をもち始めている自分に気づいていたが、それは互いに口にも出さず、よそめには、芸術上の息が合う教師と生徒という間柄でしかなかった。

 二学期の秋風がさわやかに感じられるころになった。突然、河合は感情をおさえきれず、礼子さんに対する自分の心を打ち明けたのである。それは聞いてはならぬ告白であった。
「彼には奥様がいらっしゃる……」

 優しい心根の礼子さんはさんざん悩みぬいたが、彼女の河合に対する愛も高まるばかりで、ついに河合の愛情を受け入れてしまったのである。ひとたび(せき)が切れると急速に二人は接近し、時の経過とともにすべてを許し合った二人の愛は、さらに大きく膨らむばかりであった。

 しかし、群をぬく美しさと豊かな才能に恵まれながら、たった一つ、彼女に欠けるものがあった。それは生まれながらにして病弱という点である。これだけは、畑家の財力と両親の愛情をもってしても、いかんともしようがなかった。

 ピアノの演奏がどのくらい体力を消耗するものかは、激しいレッスンに耐えた者でなければわからない。将来、一流のプロのピアニストたらんと望むならば、健康面の管理も不可欠な問題なのである。

 彼女の病弱の原因は、呼吸器にあった。大学に入る直前、ふとした風邪をこじらせて発病して以来、軽い喀血(かっけつ)に見舞われたことはあったが、しばらく休養した後、小康状態を得て、ふたたび元気をとりもどすことができた。

 それからは、ときおり、咳き込んだりすると胸苦しさを覚えはしたが、若い彼女はひたすらレッスンに明け暮れる毎日を送っていた。ただし、医師からは絶対に無理をしないようにとの注意を受けていたのである。

 河合にしても、もちろん、礼子さんの病気を知ってはいたが、たいしたことはないだろうと軽く考えていた。
「妻と離婚した後、改めてご両親に二人の結婚のお許しを申し出るつもりだ」

 と礼子さんに告げたのは、彼女が三年生になった春のことである。

 すべては卒業を待ってからということになった。だが病菌は、彼女の知らぬ間に、徐々に徐々に肺の浸潤(しんじゅん)を広げていたのである。

 九月初旬のある日、新春の校内演奏会で、ピアノの部の栄えある奏者として、成績の優秀な礼子さんが選ばれた。曲目は、彼女のもっとも好きな曲の一つであり、流麗な旋律ながら難曲とされているチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」と決定した。

 それからはさらにさらに猛練習が開始され、彼女の身体を案ずる両親をはらはらさせたが、翌年の演奏会に備えて、一日六時間から七時間も、鍵盤に指を走らせる日が続いた。

 その日も畑家には夕刻から河合が訪れて、熱心に練習がおこなわれていた。礼子さんの演奏内容は十分に彼を満足させるものであり、二人のピアノに対する情熱とともに、ますます師弟の息もぴったりと合って、すべてが最高の状態といえた。

 第一楽章から第二楽章に入って間もなく、目をつぶって聴き入っていた河合は、突然、鍵盤全体が「ゴーン!!」という激しい不協和音を立てたのに驚いて目を開けた。鍵盤に覆いかぶさるようにして礼子さんがつっぷし、苦しげな息づかいを見せていた。
「礼子! どうした?!」

 肩に手をかけて、体を引き起こすと、仰向(あおむ)けになった礼子さんの青白い顔を真っ赤に染めて、おびただしい鮮血が噴き出し鍵盤を流れた。いままでにない、多量の喀血である。

 幸福の絶頂から奈落(ならく)の底へ――。絶対安静の状態がしばらく続き、その後はピアノに向かうことも許されない、永い永い療養生活が待っていた。礼子さんのピアニストとしての道は、残念ながらそれで途絶え、すでに医師も手の下しようがない状態にまで、健康は(むしば)まれていたのである。

 新春の演奏会は、急きょ、同期の辻本京子によっておこなわれ、京子が好評を博したことを、礼子さんは複雑な気持ちで聞いた。

 休学のまま、彼女の病状は日に日に悪化していった。というのも、入院して以来、彼女がその訪れをいちばん待ち望んでいる河合剛は、彼女が喀血したことのショックがよほど大きかったのか、その直後、まだ会話も禁じられている状態のときにたった一度病院に顔を出しただけだったのである。

 本来なら、礼子さんが四年生になっているはずの春が訪れた。

 そのころ学校では、河合と礼子さんの代役を勤めた辻本京子とが結婚するのではないかとの(うわさ)が広まっていた。彼本来の浮気性が芽をだしたのかどうかはわからないが、風の便りにその噂を耳にした礼子さんは、一人ベッドのなかで、悲しみと苦しさにじっと耐えるしかなかった。翌年、二人の噂は現実となって、河合と京子の結婚式が盛大におこなわれたのである。

 妻と離別してまで、結婚しようと将来を誓い合ったはずの河合だったのに――。彼女がその悲しむべき事実を知ったのは、見舞いにきた友人たちの口からであった。河合と礼子さんとの間に深い過去があったなどとは、まったく気づいていない友人たちは、彼女の心を(はばか)ることなく、むしろ礼子さんを元気づけようと、披露宴の模様まで喋りまくる。
「素敵なカップルだったわ。かたや前途洋々たるコンダクター、かたやコンクール第一位間違いなしの京子ですもの。ああ、うらやましいなあ!」
「そう……。京子の花嫁姿って、さぞきれいだったでしょうね」
「でも、礼子さえ元気だったら、彼女、コンクールの優勝は望みなしだったのにねえ。早く元気になって、礼子にも頑張ってもらわなくちゃ!」

 にぎやかに飛び交う友人の語らいを、礼子さんはただ空しく聞いていた。

 それから間もなく、二十四歳の若さで礼子さんはこの世を去った。あまりにも短い、美しい乙女の生涯であった。

・血塗られたコンサート


 時は流れて昭和三十四年の初春。礼子さんが亡くなってから、もう十年の歳月がたっている。全国のいたるところに、立派な演奏会場が新設されつつあった。各地にも大小のオーケストラが編成されて、クラシツク音楽は、戦前をはるかにしのぐ盛況ぶりをみせる時代となっていた。

 そのころ河合は、同じ大学に助教授としての籍はおいていたが、教壇に立つよりも、日夜ステージの上での演奏活動に追われる売れっ子ぶりであった。

 いっぽう、夫人の京子は、第一線のピアニストとしての力量と素質に欠けていることを、誰よりも自分自身が悟っていたので、もっぱら内助の功として、夫のよき理解者、協力者の立場をとっていたのである。

 河合は多忙な演奏会のスケジュールをぬって、東京の近郊にあるT大学のニューイヤーコンサートの客演指揮を依頼され、折を見ては学生たちの練習につき合っていた。曲目はモーツァルトの交響楽「ジュピター」と、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」と決定していた。

 ソリストはその大学の女子生徒だったが、河合は、曲目ならびにピアニストが女性であると聞いても、死んだ礼子さんを思いだすことはなかった。それほど、彼の日常は多忙にすぎていき、ゆとりのないものだったのである。

 当日、演奏会場として使用された講堂で、河合は超満員の大拍手に迎えられた。ジュピターは無難に演奏を終えて控室でしばらく休憩を取っている間に、ステージのオーケストラの前方には、次のコンチェルトのために真新しいコンサート・ピアノが設置され、準備は整った。

 ふたたびステージに立った河合がタクトを握ると、拍手が鳴りやんで、静寂が会場に緊張感をもたらす。女性ピアニストとの呼吸を整えると、とたんに量感にあふれた力強いオーケストラとピアノの音が場内を圧倒しはじめた。聴衆の学生たちは、母校の管弦楽団の、母校での演奏にしびれていた。
「快調だ!! じつに快調だ!!」

 学生オーケストラとしては、かなり高い水準にある満足感に浸りながら、河合は機嫌よく棒をふり続けていた。

 感動のうちに第一楽章が終わると、客席には細やかな咳払いや、人々のざわめきがひろがったが、じきにもとの静寂にもどった。

 ややあって、第二楽章が美しいまとまりを見せて、流れ出した。
「よし、いいぞ。この調子でいけ!」

 河合も音に酔っていた。

 そのとき、それまで爽快に運んでいたピアニストの指がなんとなく乱れ始めた。譜面上にはない音が乱雑に入り乱れて、テンポもすっかり狂っている。河合は驚いたが、ステージに慣れない初心者にはよくあることなので、なんとかその場をカバーすべく懸命だった。
「ギャーッ!!」という叫び声と同時に、突然、女性ピアニストが椅子から立ち上がった。その顔は真っ青である。会場は一瞬のうちに大混乱となってしまった。
「どうした?!」

 と反射的に河合はピアニストに視線を向けた。
「あっ、礼子!!」

 たしかにそこには、青白い顔の礼子さんが立っている。その女性ピアニストは、まぎれもない礼子さんだった。次の瞬間、ピアニストが叫んだ。
「血が、ピアノに血がっ!!」

 河合の目は、ピアノの鍵盤に釘づけにされた。なんということだろう! 見よ、白鍵と黒鍵の隙間から、赤い血のような液体が、じわじわとにじみ出ているのだ。
「礼子!! 礼子!!」

 周囲の者には不可解な女性の名を二、三度くり返しながら、河合は指揮台から転がるように降りると、頭を抱え込んで走り去った。会場を埋めた聴衆は、突然の成行きに、ステージになにが起きたのか、皆目わからないながらも、たいへんなハプニングが起こったことを察していた。

 やがて、気を取り直したコンサート・マスターが、女性ピアニストに近づいて訊ねた。
「さっき血だとかいったが、どこに……?」

 だが、彼女は恐怖のため、唇を震わせるばかりで答えられなかった。

 なぜなら、たったいま、鍵盤上ににじみ出ていた血のような赤い液体を、はっきりと自分の目で見たからこそ立ち上がったのに、その痕跡はまったく消え失せていたからである。

 当然、コンサートは中止された。

 放心状態の河合の部屋に、大学の関係者と、意気消沈の女性ピアニストが姿を現した。
「河合先生、申し訳ございませんでした。私のミスで……」

 河合は恐る恐る彼女の顔を見たが、それは礼子さんではなく、熱心に練習に励んでいたいつもの女子学生であった。

 河合が受けたショックは大きかった。彼にとっては遠い過去の出来事ではあったが、十年前、礼子さんとともに校内演奏会に備えて猛練習をしていたあの当時の情景が、はっきりと胸によみがえってきたのだ。

 練習中の礼子さんの喀血、――それは信じがたいことながら、偶然にも今日の演奏会と同じ曲の第二楽章であり、しかも譜面上もまったく同じ個所ではないか。

 その後、彼がチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」の棒をふるのは、決してはじめてではない。それは男性ピアニスト、女性ピアニストの両方によるものであり、かつてただの一度たりとも、今回のようなトラブルに見舞われたことはなかった。

 それに、なぜ女子学生の顔が礼子さんに見えたのだろう? 彼女もまた「血が!!」と叫んだとおり、鍵盤の間からにじみ出た真っ赤な血をはっきり見たと証言している。礼子さんに対する裏切り行為には、彼もその当座は一時的にしろ思い悩んだから、胸の奥深くに潜んでいた良心の呵責(かしゃく)が起こした幻想だったのだろうか?

 しかしまったく無関係な女子学生までが、自分と同じ恐怖に襲われたというのはどうにも解せなかった。事件以来、精神的ショックによる気力喪失もおおいに関係して、彼の音楽活動は次第に減少していった。

 日がたつにつれて、河合はいまさらのように、礼子さんの心に与えた傷が想像以上に深かったことを悟り、妻の京子にもすべてを語ったうえで、夫婦そろって亡き礼子さんの墓を訪れたのである。

 奇しき霊のはたらきというべきか。たまたまその日、偶然にも同じく墓参にきあわせた礼子さんの両親と、河合は十年ぶりに再会したのである。そして、さらに彼をいっそう驚かせることがあった。

 それは、あのときT大のステージ上にあったあの真新しいコンサート・ピアノは、T大と同じ市内に住む礼子さんの父親が、夢をはたさずに逝った娘の霊よ安かれと、最近、寄贈したものであることがわかったのだ。

 チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」は、彼にとっては協奏曲ではなく、狂奏曲であった。


この記事は役に立ちましたか?

役に立った
1
残り:0文字/本文:5698文字
      この記事を収録している本
      レビューを書くレビューを書く
      この本の目次