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「その後」どうなる?
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雑学
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3 大活躍したあの人の、誰も知らない“その後”の消息 あの名ゼリフを残して去ったクラーク博士の仰天の晩年とは?

『「その後」どうなる?』
[編]素朴な疑問探究会 [発行] 河出書房新社


読了目安時間:33分
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【フランシスコ・ザビエル】のその後――日本での布教を終え、それからどこへ行った?


 日本のおとなり韓国は、キリスト教徒が多い国でもある。それにくらべれば、同じころに伝来したはずなのに、日本には信者があまりいない。

 もちろん、教会はあちこちにあるし、クリスマスは国民的行事だし、教会で結婚式をあげるカップルも多いのに、本当の信者はなかなか増えないようだ。

 ところで、いうまでもなく、日本にキリスト教を伝えたのは、フランシスコ・ザビエル。イエズス会の宣教師として、インドに布教にいった。そのあとに、日本にもやってきたのである。一五四九年のことである。

 当時の日本は戦国時代。大名たちは、この新しい宗教を、割合に抵抗なく受け入れ、布教を許した。というのも、宣教師たちがもってくる、鉄砲などの新しい武器が欲しかったからだった。

 ザビエルは、基礎ができたところで日本を去った。一五五一年のことである。その後マラッカまで戻り、さらに中国へ布教に向かうところだったのだが、熱病にかかって、あっけなく死んでしまう。日本をでて、一年後のことだった。

 つまり、ザビエルのその後は、ほとんどないのである。


【クラーク博士】のその後――日本を去ってから彼はどうしていたのか

「少年よ、大志を抱け」といえば、いまも札幌に銅像のあるクラーク博士の言葉。

 アメリカの教育者で、明治政府に招かれて、明治九年に来日。できたばかりの札幌農学校の教頭となるが、わずか一年でアメリカに戻る。

 しかし、その短いあいだに、五千円札になった新渡戸稲造(にとべいなぞう)や、内村鑑三(うちむらかんぞう)といった人材を育てた。

 そういうわけで、クラーク博士は日本ではあの名ゼリフとともに、“えらい人”として有名なのだが、故国アメリカではかなり評判が悪い。

 理想家だったために人々と衝突することが多く、なかなかうまくいかない。日本から帰ると、マサチューセッツ大学の教授になるが、大学の方針と合わずに辞職。

 それから、海上大学なるものを構想する。汽船を校舎として海を航海しながら、自然や民族について実地に研究するというものだった。だが、志願者が少なく、スポンサーとしてあてにしていた実業家も死んでしまう。

 そこで、鉱山に投資したりして金策に走るのだが、もともと教育者、うまくいくわけがなく、他人の金までつかってしまい、みんなからサギ師だ、とののしられてしまう。

 そんな罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びながら、この世を去った。


【天正遣欧使節】のその後――ローマ法王に会うまでは有名な話だが……


 海外赴任は一般に出世コースとみなされるが、場合によっては、そうでもない場合もある。

 あまり長く海外にいると、日本の習慣やら風俗と合わなくなってしまい、本社に戻ってきても、人間関係などがうまくいかなくなる場合があるからだ。一か月くらいの海外出張でも、帰ってきたら大きな人事異動がありとまどった、なんてことは、よくある話だ。

 しかし、それでも戦国時代末期の天正遣欧使節団にくらべれば、まだましだろう。彼らの場合、ヨーロッパに「長期出張」して、帰ってみたら、会社が倒産していた、というような運命にあった。

 彼らは、キリシタン大名の大友義鎮(よししげ)、大村純忠、有馬晴信たちによって派遣された。その目的は、ローマ法王に謁見(えっけん)すること。一五八二年一月に出発し、八五年にようやく目的を達した。この悲運の使節団のメンバーは四人。

 こうして意気揚々と帰国したのが、一五九〇年。ところが、豊臣秀吉が権力を握ると、彼はキリシタン弾圧に乗りだし、大友、大村の両大名もすでにこの世の人ではなかった。

 せっかく日本にキリスト教を広めようとして帰ってきたのに、それが不可能となってしまったのだ。

 しかし、四人のうちキリスト教を棄てたのは、ひとりだけ。あとの三人は死ぬまで信仰を守り通した。

 そのひとり、中浦ジュリアンは、一六三三年には処刑される。殉教である。その刑場に連れていかれるときも、「われこそはローマに赴いた中浦ジュリアン」と叫んだという。


【将軍になれなかった将軍の子】のその後――それでも将軍家にいてもいいの?


 世襲制(せしゅうせい)には、ふたつの大きな問題がある。ひとつは、その当主になかなか子供ができない場合。この場合、弟があとを継いだり、養子をとったりするわけだ。

 もうひとつは、子供が多すぎる場合である。それも、正妻のほかに側室がたくさんいる場合は、話がややこしくなり、いずれにしろ、派閥争いのもととなり、いわゆるお家騒動に発展しやすい。

 江戸時代は、武士の家はみな世襲制だったので、トラブルは多かった。なかでも、最高の武士である将軍家の世継ぎ問題というのは、国を動かす大問題だった。

 徳川将軍一五人の中には、実子ができなかった人もいれば、たくさんつくった人もいるのだが、十一代将軍家斉(いえなり)には五五人もの子供がいた。生ませた女性は四〇人という。

 いくら将軍の最大の仕事は世継ぎをつくることだったとはいえ、これはがんばりすぎ。つぎの将軍になれるのはひとりしかいないわけだから、幕府にとって、この子供たちをどうするかは大問題だった。

 将軍を継いだのは次男で、これが十二代の家慶(いえよし)となる。

 残りは、それなりの大名家に嫁にやったり、あるいは男子の場合は養子にださなければならなくなった。ところが、はっきりいって、みなそれほどデキのいい子たちではなかったので、大名たちは内心断りたかったらしい。しかし、将軍に向かってそうはいえず、ありがたく養子縁組みをせざるをえない。

 そんなこんなで、五五人のうち、子供のころに死んでしまったり、体が弱く結婚できなかったものをのぞき、三七人が、どうにか、おさまるところにおさまった。

 そのおかげで、そこいらじゅうに、将軍家と縁続きという家ができてしまった。


【大隈重信の右足】のその後――爆弾テロで失った右足はどうなった?


 権力を握っている者が、その権力を失うことを「失脚(しっきゃく)」という。ちょっとしたミスや、政敵の攻撃によるものなど、その理由はさまざまだが、大隈重信(おおくましげのぶ)の場合は、本当に足を切断してしまった。
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