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暗黒の日本史
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歴史
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菅原道真は本当に「罠」に嵌められたのか

『暗黒の日本史』
[編]歴史の謎研究会 [発行]青春出版社


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■異例の出世で囁かれた噂

 延長(えんちょう)8年(930年)初夏、朝廷のある京都は日照りが続いていた。公卿たちはなんとか雨を降らせようと、雨乞いのために清涼殿(せいりょうでん)に集まった。

 すると、そこに突如(とつじょ)黒雲が巻き起り雷鳴が激しく鳴り響くと、突然建物に雷が落ちた。この事故でその場にいた大納言(だいなごん)の藤原清貫(きよつら)ら2人が即死したほか、3人の公卿(くぎょう)が大けがを負ってしまう。

 だが、不幸はこれだけでは終らなかった。事故の翌月には醍醐(だいご)天皇が突如病に倒れて9月には急逝してしまう。これ以前から藤原時平(ときひら)の子らが夭死(ようし)したり、醍醐天皇の身内に不幸が相次いでいたこともあり、都の人々は一連の出来事が菅原道真(すがわらのみちざね)怨霊(おんりょう)によるものではないかと恐れおののいた。

 菅原道真は時平に妬まれて失脚し、冤罪(えんざい)で九州・大宰府(だざいふ)に流された悲劇の人物として伝えられている。だが、本当に道真は冤罪だったのだろうか。史料から浮かび上がってくる道真には不可解な点があまりにも多いのだ。

 時平が勢力を誇った平安時代は摂関(せっかん)政治の時代だった。摂関政治とは幼少の天皇に成り代わり摂政が政治を行うことで、その職を藤原氏が独占していた。

 藤原氏は皇室との姻戚(いんせき)関係を利用しながらほかの有力な氏族を排除し、藤原良房(よしふさ)天安(てんあん)2年(858年)に摂政(せっしょう)に就くと、その子の藤原基経(もとつね)関白(かんぱく)にのぼり詰め政治の全権を握る。時平は基経の子にあたった。

 一方、学者の家系を持つ道真は、若干26歳で官僚の登竜門といわれる国家試験の「方略試(ほうりゃくし)」に合格するとエリートコースを着実に歩みはじめた。この藤原氏と縁もゆかりもない優秀な若者に注目したのが宇多(うだ)天皇だった。

 宇多天皇は朝廷での藤原氏の影響力があまりにも大きいことに不安を持ち、その力を少しでも排除できないかと朝廷の改革を目論んでいたのである。

 そこで、宇多天皇は寛平(かんぴょう)3年(891年)に道真を蔵人頭(くろうどのとう)として大抜擢すると、その翌年には公家(くげ)会議に出席できるようにする。こうして道真は49歳で参議(さんぎ)51歳で中納言(ちゅうなごん)55歳で右大臣(うだいじん)と異例の出世をするのである。

 この出世を時平が妬んだのが、道真失脚の引き金になったとされる。

 時平と道真の年齢差は親子ほどもあったが、道真は政を決める公家会議で発言力を持っていて、その影響力も宇多天皇をバックにつけているだけに大きいものがあった。

 つまり、若輩の時平に成り代わり政治の中枢を握っていたことになり、そこに嫉妬をしたというわけだ。

■本当に道真は嵌められたのか

 延喜(えんぎ)元年(901年)1月25日道真に冤罪が着せられる。突如、朝廷から謀反(むほん)の罪で九州の大宰府に流されることを告げられるのだ。

 この時、すでに宇多天皇は13歳の醍醐天皇に譲位(じょうい)して上皇(じょうこう)となっていた。それでも、知らせを聞いた宇多上皇は道真をかばおうと宮中に駆けつける。しかし宮中には一歩も入ることができなかった。

 道真の罪というのはクーデターを企てたというものだった。罪状は「これまで高い身分にまで引き立てられたにもかかわらず、醍醐天皇に代わる天皇の擁立(ようりつ)を企てた」というものである。

 これを道真は冤罪と主張し人々もそれを信じた。しかし、道真の新天皇の擁立というのはまったくのでっち上げなのだろうか。じつは宇多上皇は藤原氏の影響を受けていない別の人物を皇位につけようと画策した形跡がある。

 しかも道真は朝廷から告訴される前に上皇の院司(いんし)である源善(みなもとのよし)と密かに会っている。道真はその事実をきっぱりと否定しているが、新天皇擁立について話し合っていたことは十分に考えられる。これは朝廷が道真を謀反で訴えた時の宇多上皇の態度や、それまでの上皇との関係を考えると、容易に想像がつく。

 つまり、宇多上皇と道真は、藤原氏と関係深い醍醐天皇を退位させることで、時平の失脚を狙っていた。それを知った時平が先手必勝とばかりに、醍醐天皇と組んで道真を失脚させたというわけだ。そうであれば、道真の謀反は冤罪ではなく確信犯であり、その黒幕的存在は宇多上皇ということになるのである。

 道真は大宰府に流された2年後、延喜3年(903年)2月に59歳で死去している。その後、天神様として信仰の対象となるのだが、道真が死後すぐに大宰府で祀られて天神様になったわけではない。

 道真が天神様になるのはそれから半世紀も過ぎた10世紀中頃で、しかも祀られたのは京都にある北野神社(北野天満宮(きたのてんまんぐう))である。

 半世紀も経ってからしかも京都で祀られるようになった理由は、冒頭のような出来事が続いたため朝廷が道真を天神様として祀ったことにある。その際、願文に「文道之祖(ぶんどうのそ)」と記されたことから、のちに学問の神様として人々に親しまれるようになった。

 はたして天神様として祀られた道真は、無実の罪を着せられた悲劇の人物だったのか、それともさらなる権力を手に入れるためクーデターを起こそうとしたのか、この謎を解く鍵はまだ見つかってはいない。
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