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田中角栄 権力の源泉
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政治・社会
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人間は、働かなくちゃいかん

『田中角栄 権力の源泉』
[著]大下英治 [発行]イースト・プレス


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 田中角栄は、大正七年五月四日、新潟県(かり)()(ふた)()(現・柏崎市西山町)に生まれた。上には兄一人、姉二人がいた。が、兄の角一が六歳で早世したため、田中は、実質長男のようにして育った。


 田中家は、二田村坂田の一八戸の一軒としてつづいてきた古い農家であった。八、九反の田があった。しかし、田中家は、農村にはめずらしく農業が本業ではなかった。父親の(かく)()は、牛馬商を営んでいた。いわゆる(ばく)(ろう)であった。


 田中は、二歳のとき、ジフテリアにかかった。高熱を発し、生死不明になった。その大病がもとで、(きつ)(おん)になった。人生の初めから、大きなハンディを背負うことになる。


 田中は吃音がひどいため、内気になった。近所の子供たちのように、外に出て飛びはねることもなかった。あまり外出しないで、家の中で遊ぶことが多かった。


 たまに外へ出ると、近所の子供たちからいじめられた。

〈こんちくしょう!


 いじめる子供たちに口答えしようとした。が、吃音のため、うまく口がまわらない。口をモグモグさせているうちに、言葉で表現することがもどかしくなった。つい(げん)(こつ)をふりあげた。弱いくせに、手だけは早かった。


 田中は、大正一四年四月、二田尋常小学校に入学した。


 角栄が生涯の師と仰いだ校長の(くさ)()(みち)()(すけ)が教えた。

「人間の脳とは、数多いモーターの集まりである。普通の人間は、その中の一〇個か一五個のモーターをまわしておれば生きていける。しかしこの脳中のモーターは、努力しさえすれば、何百個も、何千個も動かすことも可能だ。脳中のモーターの四分の一動けば、天才である。半分動いたら、エジソンになる。モーターが全部動くと、お釈迦さんになる。それには勉強することであり、数多く暗記することである」


 田中は、眼を輝かして聞き入った。


 草間は、さらに教えた。

「われわれ人間の頭脳の中は、数限りない印画紙の倉庫となっている。自分が強く感ずれば、印画紙は強く感光するし、弱く感ずれば、露出される映像もまた()()たるものとなる。自分の姓名さえも書くことのできない文盲の(ろう)()も、真剣に経文を教われば忘れることもない。しかして脳中の印画紙は、無数であり、しかも一度露出された映像は死ぬそのときまで消えることがない。難解なものと取り組んでわれわれは苦悩する。すべてを暗記するには、数はきわめて多すぎる。しかしそんなときも脳中のモーターはまわり、印画紙に対する感光は継続して、休むことがない」


 このふたつの言葉は、のちの田中の人生に、決定的な影響を与えた。


 五年生の秋、学芸会がおこなわれた。「弁慶安宅(あたか)の関」が出し物であった。田中は、みずから弁慶の役を志願した。


 セリフに節をつけて歌うようにしゃべったり、伴奏をつけてもらったりと、工夫したおかげで、最後まで吃音にならずに済んだ。それどころか、満場、割れんばかりの拍手(かつ)(さい)であった。


 田中は、その弁慶役の成功により、すっかり吃音の克服への自信をつけた。

〈人生、何事も逃げねえで、真正面から立ち向かっていけば、どんな苦しみも乗り越えていけるんだ〉


 田中は、五年生を終えたとき、先生から言われた。

「おまえは、五年修了で柏崎の中学校に行ける。どうするか」


 当時は、成績が優秀な者は、六年生を一年飛ばして、すぐに中学校へ進めた。しかし、田中の父角次は、ホルスタイン種の輸入に失敗し、大牧場にかけた夢は消え果て、財産の大半を失っていた。さらに、起死回生を狙って手を出した(よう)()業にもしくじっていた。母親のフメは、女手ひとつで田畑に出、必死に耕していた。


 母親の苦労を思うと、とても中学には進む気にならなかった。

「先生、おら高等科に進みます」


 昭和八年三月、二田尋常高等小学校の卒業式がおこなわれた。田中は、総代として答辞を読むことに決まった。田中は、その文面に()りに凝った。


 当時、新潮社が雑誌『日の出』を創刊するにあたり、懸賞小説を募集した。田中は、「三十年一日の如し」という小説を投稿した。一等入選の夢こそ破れたが、佳作の下に入り、五円の賞金をもらっていた。


 密かに、

〈おらは、小説家になれるかもしれねえ〉


 と考えていたくらいであったから、文章はうまかった。のちに、大物文芸評論家の()(ばやし)(ひで)()が田中の自伝『私の履歴書』を目に止め、絶賛したというエピソードもある。


 田中は、練りに練った文章を手にし、卒業式の日に答辞を読んだ。

「残雪はなお軒下に(うずたか)く、未だ冬の名残も去りがたけれども、わが二田の里にも、甦生の春が訪れようとしています」


 朗々と読みあげた。かつて吃音で悩んだのが、嘘のようであった。


 高等小学校を卒業した田中に、すぐに仕事はなかった。この四年前の昭和四年一〇月二四日、ニューヨーク市ウォール街にはじまった世界大恐慌の嵐は、一週間も経たないうちに日本の農村へも押し寄せていた。


 新潟県は、国の補助を得て、救農土木工事をはじめていた。家の前を通る道路の坂の部分を切り下げる工事に、二田村の者は、老人も若者も、女性までも出た。


 田中は、両親に申し出た。

「おらも、トロ(トロッコ)を押しに出るぞ」


 田中は、小学校にあがる前から体が弱かった。それゆえ田畑に出て働いたことは、ただの一度もなかった。


 生まれて初めての本格的労働であった。母親は、田中のために地下足袋を買ってくれた。田中はその新しい()()()()を履き、七月一日から、()(かた)の一人として働いた。


 毎日、朝の五時半から夕方の六時半ごろまで、トロッコやネコ車という小さな車で、土や石ころを懸命に運んだ。


 現場に、おもしろい(じい)さんがいた。泥まみれになっている田中に言った。

「土方、土方というが、土方は、一番でけえ芸術家だ。パナマ運河で、太平洋と大西洋をつないだり、スエズ運河で、地中海と紅海を結んだのも、みんな土方だ」


 田中は、鋭い眼を輝かせてその爺さんの言うことに聞き入った。


 爺さんは、田中の肩に手を置いて言った。

「土方は、つまり地球の彫刻家だ」


 田中は、爺さんの言う通りだ、と感心した。


 田中は、次の日から、いっそう気を入れ、泥にまみれて働いた。トロッコを押しながら、お経の文句のように(つぶや)きつづけた。

「人間は、働かなくちゃいかん。人間は、働かなくちゃいかん」


 田中少年は、天地の燃えるような七月の暑いさなか、三一日間、一日も休まず働いた。一日五〇銭ずつの三一日分、一五円五〇銭を受け取った。懸賞小説で五円(かせ)いで以来の、田中にとって生まれて二度目の稼ぎであった。


 田中は、この土方仕事と、おもしろい爺さんに出会ったことにより、すっかり人間が変わっていた。このとき以来、絶えず働いていないと気が済まないほどの働き者になった。


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