読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-1
kiji
0
1
1043443
0
日本人が知らなかった歴史の顛末
2
0
0
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
鹿ケ谷事件で孤島に流された僧・俊寛がたどった知られざるその後

『日本人が知らなかった歴史の顛末』
[編]歴史の謎研究会 [発行]青春出版社


読了目安時間:5分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ



 歌舞伎や能楽に多少なりとも興味がある人なら、『俊寛(しゅんかん)』という演目があるのをご存じだろう。

 平家打倒の陰謀が発覚し、陰謀を企てた仲間二人とともに南海の孤島に流された僧・俊寛。翌年、許されて都へ帰ることになったが、それは俊寛以外の二人だけで、俊寛だけは島に残るよう命じられる。仲間が乗った舟を泣きながら岸壁で見送る俊寛。都にいる家族と離れ離れになり、孤島に一人とり残された男の絶望感や孤独感が観客の心にひしひしと伝わってくる名場面である。そんな俊寛は、はたしてその後島でどんな暮らしを送ったのだろうか。

 一一七七年、京都・鹿ケ谷(ししがたに)において大納言藤原成親(なりちか)を中心とする後白河院の近臣たちによる平家打倒の計画が練られる。ところが、形にならぬうちに平清盛の知るところとなり、首謀者たちは捕らえられ、処罰される。その中にいた法勝寺(ほっしょうじ)の俊寛僧都(そうず)(僧都は僧正に次ぐ高位)は陰謀仲間の藤原成経(なりつね)(成親の子)、平康頼(やすより)の二人とともにその年の六月、南海の孤島・鬼界ケ島に流される。

 鬼界ケ島は現在の喜界島のことで、奄美大島の東の海上、約二十キロメートルのところに位置し、南北に長い周囲五十キロメートルほどの島である。二〇〇一年五月現在、およそ九千二百人の島民が暮らしている。サトウキビ栽培が基幹産業だ。

 俊寛らが島に入って一年後、清盛の次女・徳子(のちの建礼門院)の懐妊に伴う恩赦が実施され、鬼界ケ島の流人たちは帰洛(きらく)できることになった。しかし、俊寛だけは許されず、そのまま島に留まるよう命じられる。俊寛は岸壁を離れていく舟に向かい、「これ乗せてゆけ、()してゆけ」と、足摺り(じだんだを踏むこと)しながら泣き叫んだと『平家物語』に記されている。

 都に戻った藤原成経、平康頼の二人のその後だが、成経は後白河院に召し抱えられ、一一八二年に従四位上、翌年、平家が都落ちしてからは右近衛少将に復任し、のち参議右中将正三位にまで昇進した。一二〇二年、四十七歳で没する。一方、康頼は東山に閑居、『宝物集』という仏教説話集を著した。晩年は源頼朝に取り立てられ阿波国麻殖(おえ)を治めた。没年は未詳。

 さて、島に残ることになった俊寛。一時は絶望感から海に身投げすることも考えたが、都に暮らす家族を思い、それは断念する。俊寛は飢えで衰弱した体に鞭打ち、生計の道を探る。

 あるときは山に登って硫黄を取り、九州からやって来た商人に売ってかわりに食べ物をもらった。またあるときは、海岸で貝や海藻を拾ったり、島の漁師に頼み込んで魚を分けてもらうなどしてどうにか命をつないだ。わずか一年前まで、広大な法勝寺領を管掌する立場にあり、後白河院の近臣として権勢を誇った俊寛だったが、それからは想像もできない悲惨な暮らしぶりだった。

 一一七九年三月、そんな俊寛のもとに都から一人の若者が訪ねてくる。名を有王(ありおう)といい、昔、俊寛の従者をしていた男だった。有王は主人の身を案じて遠路はるばる訪ねてきたのだった。ある朝、有王は俊寛と海岸で劇的な再会を果たす。向こうのほうから蜻蛉(かげろう)(トンボのこと)のように痩せこけ、ぼろ着を身にまとった男が片手に小魚、片手に海藻をさげ、よたよたと歩いてくる。それがかつての主人、俊寛だった。

 有王は眼前に現われた俊寛の姿が幽鬼さながらであったため、自分が餓鬼道へさまよいこんだのではないかと一瞬錯覚したほどだった。俊寛は目の前の若者が有王だと分かると、自分の落ちぶれ果てた姿を恥じ、手にした魚や海藻をその場に投げ捨てたという。

 俊寛は有王から都に暮らす妻子が亡くなったことを聞く。絶望感に苛まれる俊寛。さらに、ひとり、奈良のおばのもとに身を寄せている十二歳の娘から(ことづか)ってきた手紙を見せられ、「この子の行く末が心配だ」と涙を流す。

 有王はそんな俊寛を憐れみ、この島で世話をしたいと申し出る。しかし、俊寛は有王にまで辛い思いをさせるのはしのびないと考え、以後、食事を摂るのを止め、念仏三昧の日々を送る。

 有王が島に渡って二十三日目、粗末な(いおり)で俊寛は没した。三十七年の生涯だった。有王は泣きながらかつての主人を火葬にすると、遺骨を拾い、商人船に頼んで九州にたどり着く。そして都へ上ると俊寛の娘を訪ね、父親が亡くなったてんまつを語って聞かせた。落胆した娘はその後、奈良の法華寺に入って尼となり、父母の後世を弔った。

 一方、有王は高野山に上って俊寛の遺骨を奥の院に納めた後、法師となり、諸国を修行して歩きながら霊を弔ったという。『平家物語 巻第三 僧都死去』の項は、
「か様に人の思嘆(おもいなげ)きのつもりぬる、平家の末こそおそろしけれ」

 と結んでいる。俊寛が没してわずか六年後、栄華を誇った平家一門は壇ノ浦において滅亡する。


この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:0文字/本文:2009文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次