幕末、尊皇攘夷を旗印に掲げる過激派の間で倒幕の気運が盛り上がっていた。その力をそぐために幕府がひねり出した一発逆転の秘策が「公武合体」、すなわち天皇家と徳川家との政略結婚であった。対立する両者が和睦することで政局の安定を図ろうとしたのである。
ときの将軍は紀州家から来た十四代家茂。その結婚相手として白羽の矢が立ったのが、皇女和宮であった。運命の波に抗うこともならず、婚約者との仲を引き裂かれ、嫌々徳川家に嫁いだ和宮。一体、その後の彼女にどんな運命が待ち受けていたのだろうか。
和宮は一八四六年(弘化三)閏五月、仁孝天皇の第八皇女として誕生した。仁孝帝は七男八女を成したが大半は夭逝し、成人したのは和宮と、姉にあたる敏宮、兄でのちの孝明天皇の三人のみだった。