第2話 「セックスレス」元キャバ嬢の離婚問題~ADRと離婚合意書の話~
1
いつも通り早めに出勤したサキを見つけ、「ちょいとお前さん」と店長が手招きした。事務室に行って座るや否や、店長が情けない声で、「サキちゃーん、またお願いなんだけどなあ」と言った。
「はあ、なんでしょうか」
サキはなんとなく嫌な気配を感じて、慎重に聞いた。
加藤店長は深刻な顔をつくって腕組みし、
「うちは黒服とホステスの恋愛オーケーということになっている」と、今度は重々しく言った。
「ええ」
「それが本気の恋愛ならね。で、実際、付き合って結婚し、卒業していったのもいるんだ」
「ええ、なんか伝説のようにちょっと聞いてますけど」
「その中の一組なんだが、この前連絡があって……今度離婚しちゃうんだってさ?」
「あれま」
店長は、再びたらたら調子に戻って話し続けた。
「電話でいろいろ聞いたんだけどね。まあいろいろ事情はあるんだけど、♪別れたいのに別れられない、っていう感じらしいの」
「どういうことです?」
「あいつらは、バカだけどまともな奴らでね、ちゃんと別れる意志は決まってて、♪恨みっこなーしで別れましょうね、ってことになってるそうなんだ」
「はあ」
─いつ頃の曲なんだろ。クオレがカラオケありなら、私も詳しくなってるんだろうけど─
店長の言葉に入っているメロディの方に気を取られて、サキはそんなことを思っていた。
「で、だ」
「は、はい」
「なんで別れられないのって聞いたら、飼ってる犬のせいだって言うからお笑いじゃないの」
「はあ?」
「犬飼ってて、別れると一緒に暮らせなくなるから、だから別れられないんだって」
「ああ、なるほどー。でもなんとなくわかりますよ、子供みたいなもんですもん」
「だろ? なあ、俺の見る目は正確なんだよ」
「え?」
「ということで、なんとなく彼らの気持ちがわかるサキちゃん、事情聞いてきてくれないかな」
「えええええええ 」
「気のせいか、不満そうなんだけど」
「だって、そんな大変な話、私なんかが口出ししても」
「行政書士じゃん。犬がかわいいのは関係ありません、とか法的にきっちり話してさ」
「ぜんぜん法的じゃないじゃん……」
「この前、欠勤した時のペナルティ、チャラにしてあげるから」
「やらせていただきます」
店がはけると、さっそくサキは「卑弥呼」に行って愚痴をこぼした。
「そんなわけで、私が間に入ることになったのです。ああ、なんでこんな厄介なことに!」
「ペナルティ逃れで受けた自分がいけないんじゃん」と日美子は、カウンターの向こうで素っ気なく言った。
「だって欠勤の一日分が出るんだよ、行政書士の仕事するのと同じくらいお金になるんだもん」
「そりゃそうだね」
「もう、ほんとキビシイんだから」
「でもほかの店なんて、遅刻したら日割りの二十パー引きだ、欠勤は二百パーだ、無断欠勤なんか五百パーだとかあるってよ」
「うわあ、もうイジメの世界じゃない」
「キャバクラって、お客さんがいつ来ても指名の子がいるってのが当然じゃん。 いないとお客さん、もう来なくなっちゃう可能性大だからさ」
「それはわかるけど、でも歌舞伎町の知り合いのとこなんか、そんなことないってよ」
「ふうん」
「指名バシバシ取ってる子なんだけど、生理がキツくて周りが黄色く見えるんでお休みします、でオーケーだって」
「ぷっ」
「いいなあ」
「六本木はキビシイんじゃないかな? ま、クオレは普通な方でしょ」
「そりゃねえ、普通でなけりゃもう辞めてます」
「私は辞めました。はっはっは」
「日美子ちゃんは円満退社じゃん」
「寿退社じゃないけどね」
二人で笑ったあと、日美子が聞いた。
「で、普通ならいくらになるの、さっきの離婚の話」
サキは途端にぶすくれた。
「離婚合意書とか作って、その文書作成代だけだから安い」
「だって、いっぱい時間かけて、話まとめるわけでしょ。その分のお金は」
「取れない」
「なんでよ」
「取っちゃいけないことになってるんだもん!」
「だから、なんで」
「知らなーい。そんなの、お上に聞いてよ」
「おかしいじゃん」
「おかしいよ」
「ならどうして直らないわけ」
「それが現実ってわけ」
「そんなこと、政府が許してもオテントさんが許さないよ」
サキはちょっと笑って、「そのうち直ると思うんだけど」とつぶやき、マンゴージュースを飲んだ。
そこらの果汁五%なんてやつじゃなく、半分はマンゴーでできている本格派だ。
値段は千円と高めだが、夜の女にとってはおいしさと健康の方が大切。
─この辺が日美子ちゃんのセンスだよなあ─
そんなことを思いながら日美子を見ていると、なにやらまだ不満そうな顔をして
「しっかし、おかしいね」
「行政書士みーんな、おかしいって言ってるみたいだよ」
「そりゃそうでしょ」
「ADRって言ってね」
「なにそれ」
「裁判外紛争解決手続。今回の離婚合意なんかモロにそうだけど、裁判所を通さずADRに当事者同士で問題解決することを っていうの。これって弁護士さんもできるんだけど、行政書士にぴったしなんだよね」
「ふんふん」
「行政書士はどちらにも偏らずに問題解決の手助けをするわけよ。法的な知識はあるわけだし」
「ま、合意書作る過程で ADRしてるんだから、その分、多めにもらったりするみたいだけど、なんか後ろ暗いじゃん」
「はは、なるほどねえ」
「だからちゃんと法的にできるようになればね~」
「なるほど。いろいろ難しいねえ」
「いろいろあるわけよ、オミズのお仕事と同じように」
その日は、ずっと二人で話していて、サキは朝の六時まで卑弥呼にへばりついていた。
2
マンションのドアが聞いて、丸顔で愛想のいい女の人が「いらっしゃーい」とサキを迎えた。
「はじめまして。クオレの加藤店長から……」
「はいはい、聞いてます。どうも面倒なことですみませんねえ」
歳は三十くらい、サバサバと明るい女の人で、サキは一気に好感を持った。
部屋は 2LDKで、ゲームがテレビ台の下に無造作に突っ込んであったりして、そこここが乱雑になっていたが、不潔ではない。
「どうもどうも」と出迎えた男性は、こちらも三十歳くらいの、かなり太った愛想のいい人だった。
「クオレ時代、加藤さんにはすごくお世話になっちゃって。また手間かけちゃって申し訳ないんだけど、なんかね」と奥さんに向かって言った。
「そう、父親みたいなの」
奥さんも笑って言った。
サキは名刺を渡して、リビングのソファに腰を下ろした。
と、目の前にでん、とある大きな犬用ベッドの上に寝ている、灰色の生き物に気づいた。
「あ、この子が店長の言ってた……」とサキは言ってから、しまった、いきなり本題に入っちゃった、と言葉を濁した。
しかし二人ともまったく意に介さず、「あ、そうそう、チャッピーちゃん。ブルテリアって言うんですよ」とかわいくて仕方ないように眼を細め、奥さんが言った。
「チャッピー、チャッピーちゃん」と、動物はなんでも好きなサキが呼びかけると、チャッピーはむくりと顔を上げた。