現実認識のズレのなかで
遺族の接遇は、思っていた以上に難問であった。
応接の基本はいかにコミュニケーションが醸成できるかにかかっているが、じつに悩ましい課題である。多忙を極めた初期過程では、努めて行った個別対応も思うに任せなかったのが実態で、応接に多少の行きちがいがあったこともあるだろう。量が十分に確保できないときは、ある程度の公平性を満たすべく質を諦めなければならなかった。効率と質の板挟みである。
その混乱期に生じた誤解は、理性とは別の感情的なものが多く、ときとしては非常に厄介なものになる。
その大きな理由の一つは、死者五二〇名という数の多さによる。一口に遺族感情といっても、個別事情があって集約しきれるはずもない。
被害者の多くが東京、大阪の大都市圏の居住者であった。都会の人は概してせっかちである。都会の人の扱いに馴れない地方の警察官との感覚のズレがあったことも否めない。
今一つ、最大の理由は、置かれている遺体の厳しい実態に関する認識の差にある。
美しい状態であってほしいとの願望から、小さな肉片、骨片に離断している現実をできるだけ認めたくない遺族の意識と、現実のなかで作業している担当者のそれとに、かなりのズレがあったことであろう。
現実は、五体揃って人の形をしていたとしても、ひどい損傷で正視できないほどのひどいものが多い。そのギャップを埋めるには、かなりの時間と労力が必要であった。
遺族のつらい気持ちはよくわかるし、その立場に立って対応しなければならないが、感情論だけではこの業務は貫徹できない。ときには現実を冷厳な目で見つめた判断が必要なのである。
この問題について真正面から取り上げるとなると際限がなく、情の領域に踏み込むのはタブーのような事柄もある。
遺族対策の拠点は、当初上野村小学校体育館を予定していたが、現場が群馬県管内であることが確定した直後の一三日〇六時三〇分に、上野村だけでは事故の規模からみて処理不可能と考え、遺体収容先ともども藤岡市に移すという方針変更を行っていた。
事故発生を聞きつけた遺族関係者は、一斉に藤岡に詰めかけることになり、その数は、肉親のみならず親戚や知人・勤務先関係者等を含め、ピーク時は、予想どおり三〇一〇人にふくれあがっていたとの記録が残っている。