方針決定までの曲折
身元確認不可能部分遺体の合同火葬は、一〇月五日、一二月二〇日の二段階に分けて行われた。
藤岡市で行われた第一次合同火葬の決定までにも、いくつかの曲折があった。
警察の手続きを厳密に述べると、遺体発見場所を管轄する藤岡警察署長が、同所在地の自治体の長である上野村長に身元確認できない遺体を引き渡すまでで、以後は同村長の判断で火葬に付されたということになる。事前に政府対策本部の会議に諮るという形式的手順を踏んだが、実質的判断は私の決断にかかっていた。
このような負の結論を出すときには、前面に出たくないのが人情である。中央官庁の協議体である政府対策本部であっても、例外ではない。こうした暗い案件の判断には、あれも駄目、これも駄目と制約のある引き算的要素がつきまといやすい。
その結論が出るまで待ってはいられないので、先の捜索体制縮小のときもそうであったように、他を頼らず、自分自身が責任を持つ以外にないと考えるようになっていた。
最初からそのつもりであったわけではなく、苦渋の決断は、だんだんと心中に形成できたものである。
自分自身で決心するとなれば、自然と一つの決意ができた。
収束が早すぎるのではないかという批判に耐えるためには、「なぜそうしたのか」と聞かれればきちんと説明できるよう、納得のいく確認作業をやっておこう。逆にいえば「なぜ、やらなかったのか」との問いには「じゃあ、どうやればできる」と反論できる自信がつくまでは、やっておこうと心に決めていた。頑固にその気持ちを貫くこと以外には、最後の決断をすることはできなかったと思っている。
事故から一か月を経過したこの時期、合同慰霊祭を行い一応の区切りをつけたいという、一般論的な意見が部外で出はじめたように思う。
救難活動に参加した多くの機関のうち実質的に作業をしているのは、遺体の身元確認と刑事責任追及の両面作業を行っている警察と、原因調査を行っている事故調だけで、他の機関のなすべき作業はほとんどなくなっていた。
にもかかわらず、日本的とでもいうべきなのか、ウェットなばかりの横並び意識が強く、それぞれが設置している対策本部の看板を下ろしかねていた。