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悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾
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エンタメ
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「藤圭子」誕生

『悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』
[著]大下英治 [発行]イースト・プレス


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 石坂は、林家三平師匠の家にも電話をかけた。師匠のお内儀さんの海老名香葉子が、電話に出た。
「お内儀さん、いい曲できたんです! 聞いてください」

 石坂は、例によって『新宿の女』の一フレーズを自ら歌った。

 香葉子は、正直いって、石坂のボソボソとした男声を聞いても、これといって強い印象を持たなかった。感想をいい出せないでいると、石坂が、たたみかける。
「ね、いいでしょ。今度売り出す女の子が歌うんです。いまから、彼女を連れて、うかがっていいですか」

 石坂は、阿部純子を台東区根岸の林家三平邸に連れて行った。

 純子は、香葉子の前で、『新宿の女』を歌った。

 香葉子は、その歌を聞くなり、鳥肌が立つほどの感動を覚えた。
〈こんなかわいい女の子が、こんなに凄味のある歌詞を歌うなんて……先生、凄い歌を書いたわ……〉

 石坂が、説明した。
「とにかく苦労してきた子だから、一所懸命やってあげたいって思っています」

 当時の、庶民の代表のような三平一家が、まず共感した。石坂の狂熱に巻き込まれた、といってもいい。三平は、自分のショーの前歌に、彼女を出演させはじめた。

 もちろん、プログラムにも載せた。まったく無名の「阿部純子」を、娯楽の王様である林家三平が出演させること自体、いまだかつてないことであった。

 そのころ、林家三平は、自宅を改築中であった。その上棟式のとき、石坂は、純子を連れて行き歌わせることにした。夕方、大工の棟梁や、職人さんたちが、あらかたの仕事を終え、家の前で休憩していた。急ごしらえの卓代わりの板きれの上には、酒肴が並べられている。近所の連中も、顔を出し、お茶やお酒によばれ、にぎやかに談笑をはじめた。石坂の合図で、純子が、上棟式の終わった三平邸の外に突っ立ち、歌い始めた。

 下町の気のおけない、いい雰囲気の中、みんな相好を崩して、聴き入っている。最初は、別嬪のお姐ちゃんが、なにを歌いだすのか、というくらいの気安い感じで見ていた。ところが、『新宿の女』から、『女のブルース』、『生命ぎりぎり』と歌っていくうち、棟梁たちのコップの酒を口に運ぶ動作が止まった。

 突然、雨が降ってきた。雨脚が激しくなった。しかし、純子は、歌いやめようとはしなかった。

 石坂は、そのまま歌わせた。お内儀さんの香葉子が、心配そうに声をかけた。
「あらあら、みなさん、ずぶ濡れじゃないの。さあさあ、棟梁も、先生も、純ちゃんも、中に入ってくださいな」

 ところが、棟梁たちも、コップを持ち、ずぶ濡れになったまま、動こうとはしない。その場に釘づけになり、純子の歌に聴き入っていた。純子が、あまりにも健気に歌っていることに対する礼儀もあった。しかし、なによりも、純子の歌声が、彼らを、その場所に釘づけにしたのである。

 みな、いちように声を殺して聴き入っている。なかには、眼に涙をたたえ、啜り泣きをこらえている主婦もいる。雨が、みんなの涙を隠した。香葉子は、キューンと胸が締めつけられた。
〈この娘、たいそう見どころあるわあ……。でも、歌い手さんって成功すれば華やかだけど、こんなに切ないものなのかしら。作詞家の先生って、机の前で、チャッチャッと書いて終わりかと思ったら、こんなにまでしてひとりの歌手を売り出すものなのかしら〉

 三平の長女のみどりなどは、自分と変わらない年端の女の子が、こんなにまでして頑張る姿を見て、いきなり泣き出したのである。

 純子が歌うのをずっと見ていた林家三平も、感激していた。
「この子は、根性がある」

 香葉子は、決めた。
〈三平師匠ともども、体を張って応援してやろう〉

 デビュー曲が決まったら、次は、純子の芸名を考えなくてはならない。最初は、「野々純子」を考えていた。野原に咲く一輪の白百合、あるいは薊の花か。しかし、どうも、ピンと来ない。

 石坂は、新宿西口の淀橋警察近くのガソリンスタンドを入ってすぐの小峯ビルに事務所を構える日本音楽放送の工藤宏社長に面会に行った。デビュー曲が決まったからには、事務所をつくらないといけない。設立資金が必要だった。そのため、以前から『花菱エコーズ』売り出しで協力してもらった工藤に頼みにいったのである。

 工藤は、二百八十万円出してくれた。

 工藤に純子を会わせて話しているうち、石坂は芸名がひらめいた。
「工藤さんの藤、妹さんの桂子さんから圭の字をもらうことにしましたけど、いいですね」
「藤圭子」の誕生であった。
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