登場人物
村川麻美…商社の企画部チーフ
田崎敏則…商社の企画部長
福山章…商社の企画部社員
近藤誠一…商社の営業課長
佐々木昇…プロモーション会社の営業部長
橋本優子…佐々木の部下
清水敦子…商社の総務部社員
中山ゆかり…商社の総務部社員
三上静香…商社の総務部社員
健二…喫茶斉藤のアルバイト
1 泉警部補登場
立ち並ぶビルの合間を縫うように走る道の上を、忙しなく歩く人々を目で追いながら、晴香葉子は上品な仕草でソーサーを持ち、コーヒーカップをゆっくりと口元に運んだ。エアコンのよく効いた部屋から窓外の気温をはっきりと知ることはできないが、道行く人の多くが額の汗を拭っていることから、その暑さを推し量ることができる。
晴香は都内にあるオフィスの一室に来ていた。入り口のドアに“企画部”というプレートの貼られた部屋はさほど大きくはないが、窓際に置かれた来客用と思しきソファから見渡すと、かなり広く感じられる。
「お待たせ!」
少し高いトーンの女性の声の方に視線を移した。
戸口から小走りに近寄ってくる麻美の姿が目に入り、笑顔を返す。
麻美は抱えていた資料をバサッと音を立ててテーブルに置くと、「暑いね〜」と片手で自分を扇いで風を送りながら、向かいのソファに腰掛けた。
「ごめんね、多忙な心理カウンセラーの先生を待たせちゃって」
「何、言ってるの! 仕事忙しそうね」
「ほんとよ! もう、辞めてやるんだから!」
もはや口癖となった台詞を言って口を尖らせると、香水の資料を1部差し出した。
晴香はそれを受け取り、サッと目を通す。
麻美は香水そのものやパッケージに関して、心理学的なアプローチによるアドバイスをもらいたいと、高校時代からの友人の晴香にお願いしてきたのだ。
よくできた資料に、辞めるなんてもったいない…と思いながら麻美を見ると、ノートパソコンを開いて作業している。ぼやきながらも、仕事を楽しんでいる様子に、晴香は微笑みを投げ、もう一度資料に目を落とした。
「それでね、この香水とジュエリーをセットで販売する予定なんだけど…」
「あれ、葉子さん?」
麻美が説明を始めたとき、オフィスの入り口から名前を呼ばれた晴香は顔をそちらに向けた。
「泉さん!」
麻美もその男性を見る。
小柄でフットワークの軽そうな男性が人懐っこい笑顔を浮かべ、一緒にいた男性に挨拶をして別れると、晴香の方に歩いてきた。
「驚いたなぁ、こんなところで葉子さんに会うなんて! 商社に何の用事?」
「泉さんこそ…」
泉は麻美にも会釈した。
不思議そうな表情の麻美に、晴香は泉を簡単に紹介する。
泉が警部補だと知った麻美は、目を丸くして彼を上から下までチェックした。スリムな身体にフィットするような黒いTシャツ。その上にはシルバーのドッグタグとクロスのネックレスを重ね付けし、ヴィンテージのブラックジーンズを穿きこなす泉は、どこからどう見ても、警部補というよりはマスコミか広告業界の人間と言われたほうがしっくりとくる。驚きを隠す素振りさえ見せない麻美に苦笑しながら、晴香は来社した経緯をかいつまんで泉に話した。
「そうだったんだね」
視線を気に留める様子もなく、白い歯を見せて楽しそうに笑う泉に親しみを感じて麻美が尋ねた。
「どうして警部補さんが、田崎部長と?」
泉は自分の事情を話し始める。詳しいことは話せないようだが、セキュリティの相談でこの会社に来たらしい。帰りがけに、たまたま通りがかった企画部のオフィス内に晴香の姿が見えたので、嬉しくてつい声をかけてしまったのだと、泉は照れくさそうに頭を掻いた。
二人の様子を横から見ていた麻美が、突然、テーブルの上に投げ出した資料から何かを探し始める。
「ないな〜、どこに置いたっけ…」
「どうしたの?」
「泉さん、オシャレだから、男性用のジュエリーの意見を聞かせていただけたらなと思って…」
それからおもむろに、近くに座っている男性社員に声を掛ける。
「福山君、メンズジュエリーのファイルを出してくれない?」
麻美の高い声は活気あるオフィスの中でもひときわ大きく響いたが、名前を呼ばれた福山という男性はPCをじっと見たまま、声の方を向くどころか、名前を呼ばれたことに気づきもしない。
「もう…」
麻美は仕方ないなという様子で立ち上がった。
もう一度、今度はすぐ近くで名前を呼ばれ、福山はようやく顔を上げる。机の上に几帳面に並べたファイルの中から、ラベルを見て、1冊のファイルを麻美に手渡した。
資料を受け取った麻美はそれを一瞥して満足そうに頷くと、笑顔で二人のところに戻ってくる。
「で、これなんですけど…」
泉に説明を始めた麻美から視線を外し、晴香は窓の外に目を向けた。
もうしばらく待つことになりそうね…。
急いで階段を駆け上がり、人目を避けて本館2階の廊下を駆け抜ける。
“自分のせいじゃない”
何度も言い聞かせた言葉を、もう一度心の中で囁く。
“あんなところにいたのが悪い”
そう。悪いのは自分ではなく、相手の方…。
皮手袋をした右手に今も残る感触が、先ほどのシーンをまるで映画のように思い出させた。
「お疲れさまです!」
軽く会釈をされ、慌ててこちらも頭を下げる。
まさか、こんなところで人に会うなんて…。
今、自分のポケットに“あれ”が入っているなどと、もちろん想像もしていないだろう。
相手は背中を向けて、自動販売機で飲み物を選んでいる。
突如、ある考えが浮かぶ。