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心理カウンセラー晴香葉子の解決事件簿
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生き方・教養
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File No.02 ファントム殺人事件

『心理カウンセラー晴香葉子の解決事件簿』
[著]泉忠司 [著] 晴香葉子 [発行]青春出版社


読了目安時間:30分
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登場人物

池上康子…劇団員
酒井美咲…劇団員・準主演
田辺勇…舞台監督
飯沼仁志…劇団員・主演・有名俳優の息子
中村珠美…劇団員
新庄千春…劇団員
柏木明日香…劇団員・主演・資産家の令嬢
東俊哉…劇団員・準主演
小林弘樹…演出家
正憲…喫茶斉藤のアルバイト

1 ファントムの影


 池上康子は更衣室でロッカーの鍵を開けながら、こんなに遅い時間になるまで稽古から解放してくれなかった演出家を恨んでいた。
「終バスに間に合うかな…。今日は美咲もいないし…」

 いつもなら最後まで残っている練習熱心な親友の美咲も、入院している母の見舞いに行くからと、先に帰ってしまった。

 稽古着のジャージを脱ぎ捨てると、慌ててワンピースに袖を通す。ボタンを留めるのももどかしく、手櫛で簡単に髪を整えただけで、更衣室を飛び出した。

 非常灯がぼんやりと光を放つ静かな廊下を歩いていると、嫌でもファントムの噂話を思い出してしまう。

 そのとき、康子は不意に人の気配を感じた。

 生温かい風に呼ばれるように振り返ると、仮面をかぶり、マントをつけた背の高い男性の姿。

 誰かのいたずらだろうと思って瞬きした瞬間、その姿は霧のように消えた…。
「気のせいね…」

 自分を励ますように呟いて、薄暗い廊下をじっと見る。

 人の気配はない。

 台本の入ったバッグを持つ手に力を入れる。

 ふぅと息をついて、ふたたび歩き出そうとしたとき、背後からの風がフワリと頬を撫でるのを感じた。

 康子は恐る恐るそちらに顔を向ける。

 長い廊下の突き当たりに、ぼんやりと浮かび上がる黒い影。

 マントが風に揺れ、ゆっくりと影が振り返る。
「い……ゃ…ぁ」

 声にならない悲鳴を上げると、無我夢中で出口に向かう。

 その後、康子は自分がどこをどう走って帰ったのか、覚えていなかった。


「ほんとに出たんだってば!」

 康子は昨日のことを興奮気味に話しながら、頬を膨らませ、酒井美咲の腕を(つか)む。
「気のせいよ」

 パイプ椅子に座ったまま、台本から目を上げもしない親友の腕を大きく揺する。
「ファントムよ! 『オペラ座の怪人』の翻案作品の初日前に、ファントム役の俳優が突然死した事件があったって…。軽井沢合宿のときに舞監の田辺さんがそう言ってたの、美咲も聞いてたでしょ! きっと、その亡霊…」
「怖がっていたせいで、野良猫か何かがそんな風に見えただけだよ」

 今度の公演で主演を務める飯沼仁志が、からかうような口調で隣から口を挟む。
「そんなことないよ! 絶対いたもん!」

 康子は口を尖らせたものの、頬を一瞬淡く染める。

 有名な映画俳優の息子の仁志は劇団の中でもスター性抜群で、他の女優や女性スタッフと同じように、康子も仁志に憧れのような気持ちを抱いていた。

 むきになる康子を気に留める様子もなく、仁志は口笛を吹きながら立ち去って行く。

 その後ろ姿を見送ると、康子は矛先を美咲に戻した。
「もう! 美咲も信じてないんでしょ! 何だか気味が悪いから、私、今度の舞台に出るの、辞めようと思ってるのよ!」

 その一言に、美咲はようやく顔を上げて、康子を見る。
「本気なの?」

 康子は力強く頷いてみせる。

 周りでストレッチをしていた劇団の仲間たちが、康子の大声を聞いて、何事かと眉を寄せて近寄ってきた。
「…実を言うと…私たちもね…」

 同じ劇団員の中村珠美が、おずおずという感じで口を開く。

 珠美は隣にいる新庄千春と顔を見合わせて頷きあった後、言葉をつないだ。
「見たの…」

 二人は3日前に、非常口3階の踊り場で、非常灯の緑のランプに浮かび上がるマント姿の男を見たと言う。

 1週間くらい前にごみを捨てに行った時、足音を立てずにマントを翻して通路を走っていく人影を見たと言い出す団員も出てきた。

 珠美の告白に続いて、団員たちはあたかも持ちネタを披露するように、ファントムを見た状況を話し始める。康子の他にも、数人が目撃しているのは、確かなよう。
「やっぱり、例の死んだ俳優の亡霊かな…」
「千春もそう思う?」
「きっとそうだよ…」
「怖いね〜」
「ほんと…」

 顔を見合わせ、口々に囁き合う。
「ファントムだよ。絶対…」

 康子が涙目で呟くと、全員から賛同の声が上がった。
「でも、だとしたら…」

 美咲が心配そうな顔で呟くと、その場にいた誰もが伺い合うように視線を交わし、その先を口にできずに息を呑む。

 重い沈黙が流れた。

「おはようございます!」

 空気を一変させる明るい声が稽古場に響き渡り、誰からともなく安堵(あんど)のため息が漏れる。入り口のドアから元気いっぱいに入ってきたのは、今度の舞台の主演女優、柏木明日香だった。
「おはようございます!」

 一斉に、明日香へと声が飛ぶ。
「ねぇ仁志、ちょっと相手してくれない? うまくイメージつかめなくて」

 団員たちに笑顔を振りまきながら、まっすぐ仁志のところに行くと、明日香はペロッと舌を出し、気さくにその肩に手をかける。

 複雑な表情で二人を見つめる康子。

 そんな康子を横目に見ていた美咲の背後で、小さく舌打ちをするのが聞こえた。

 美咲が振り返ると、東俊哉が苦々しい顔で立っていた。

 次の舞台で、明日香と仁志の主演コンビを支える、いわば、準主演にあたる役を務めるのが、俊哉と美咲の二人である。
「おはよう」

 美咲が声を掛けると、俊哉は不満顔のまま「おはよう」と返すだけで、視線は明日香と仁志から離さない。

 明日香の周りにはいつの間にか団員が集まり、お互いに演技の相談を始めている。
「いい気なもんだな…」

 俊哉の呟きが明日香に向けたものか、仁志に対するものか、あるいは、団員たちになのか、美咲には判断がつかなかった。
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