登場人物
加納琴美…看護師
三枝奈津子…看護師
西森哲郎…東板大学付属病院の医師・奈津子の恋人
五十嵐ゆり…東板大学付属病院理事長の孫
孝憲…喫茶斉藤のアルバイト・正憲の双子の弟
1 恋人と地位
閑静な住宅街に佇む白いマンション。今風の豪華な建物ではないが、入り口はオートロックになっている。
加納琴美はルームナンバーに続いて、呼び出しボタンを押した。
返事がない。
同期で親友の三枝奈津子から「体調が悪いので休む」と 電話があったのが3日前。その後、まったく連絡が取れなくなった。これ以上、無断欠勤を続けたら、首になるかもしれない…。
「私たちの仕事は時間が不規則だから、セキュリティのしっかりしたところを選んだ方がいいのよ」と話していたのを思い出しながら、さらに何度か呼び出しボタンを押してみる。
返事のある気配さえない。
琴美はインターホンの前で途方にくれた。
電話を鳴らしてみようと、バッグのなかの携帯電話に手を伸ばしたとき、ふと郵便受けに目が留まる。“三枝奈津子”と書かれたポストに、無理に詰め込まれた新聞が重なるように刺さっていた。
にわかに不安を覚える。
奈津子とはもう3年近い付き合いだが、こんなふうに無断欠勤をしたり、音信不通になったりしたことは、これまで一度もない。
もしかして、急病で倒れて…。
医者の不養生ではないが、看護士の奈津子は、健康に過剰な自信を持っていた節がある。
琴美は携帯を取り出すと、入り口近くに記された管理会社の番号のボタンを押した。
ガチャリと重い音がして、鍵が開き、すぐにドアノブが回された。
琴美は緊張のため、喉がカラカラに渇いていることにも気づかず、ただゴクリと唾を飲んだ。
駆けつけて来た管理事務所の人の後ろから、部屋の中をそっと覗き見る。
小さな靴置きスペースには、女性物の靴が3足並べて置いてある。琴美にも見覚えのあるものばかりで、そこが奈津子の部屋であることは間違いなかった。
細い廊下の右側に、料理をするには狭すぎる簡易キッチンが、一応つけたという体裁程度に備え付けてある。その奥は部屋に続いているようだが、仕切りになっているドアが閉じていて、今は見えない。
「三枝さん? いませんか?」
管理会社の人が玄関口から声をかける。
続けて琴美も呼びかけてみた。
「奈津子? いないの?」
それから、小さく「入るよ…」と告げ、管理会社の人を見る。
琴美は靴を脱いで、電気をつけ、細い廊下を進んだ。
管理会社の人も後ろからついてくる。
いくら親友とは言え、無断で入り込むなんて悪いことをしているようだとドキドキしながら、琴美は部屋に通じるドアを開けた。
エアコンのひんやりとした冷気が足元を抜け、続いて、饐えた匂いが鼻をつく。
琴美は顔を歪めた。
何、この匂い…。
嫌な予感がした。
恐る恐る部屋の奥へと視線を走らせる。
奈津子…。
予感が確信に変わったとき、琴美は頭の中が真っ白になった。
「いやーーーーーーー」
甲高い悲鳴が響く。
冷たい床の上で、奈津子は苦悶の表情を浮かべ、息絶えていた。
昼下がりの喫茶斉藤で、泉警部補と晴香葉子は向かい合って腰掛けていた。
泉は今回の事件をまとめた資料と、自身の手帳を何度も読み返し、難しそうな表情を浮かべる。
晴香は涼しげな顔でアイスコーヒーを口に運びながら、泉の隣の席で寄り添うように鎮座するソメゴローとピンカートンを眺めていた。
「お手上げだよ。何度整理しても、犯人は西森哲郎以外に考えられない…。だけど、彼には完璧なアリバイが…」
泉は頬を掻きながら、晴香をじっと見る。
「事件ですね! 大事件ですね!」
「うわっ!」
いつの間に現れたのか、佐伯巡査部長が、息が掛かるくらいに泉に顔を寄せていた。
「そんな大声出して、人を変質者みたいに…」
「いま忙しいんだから、邪魔するなよ! まったく…」
「“まったく”は私のセリフですよ…ねぇ晴香さん…」
不服そうにブツブツ言いながら、佐伯はソメゴローとピンカートンを抱き上げて、椅子に座り、2匹を膝に乗せる。
泉は視界にその姿を入れないように気をつけながら、話を戻した。
「葉子さんの意見、聞かせてもらえますか?」
晴香はにっこりと微笑むと、差し出された資料に目を落とした。
東板大学付属病院は、最新設備を備えた清潔感溢れる近代的な建物と、都心にも関わらず豊かな緑に囲まれていることなどから、評判がすこぶる良かった。