【「人生計画」が、なぜ必要なのか?】
「人生計画」を樹てることなくして、
何人も完全な意義ある人生を築き上げることは難しい。
◆ゲーテでも成し遂げられなかった、本多静六の偉大な功績
建物を築くには設計図がいる。いや、建物にかぎらない。デザインや計画が求められるものは多い。では、我々の人生に設計図は必要だろうか? 意義ある人生を築くには人生計画は欠くことのできないものだと、静六は言う。
静六がみずからの人生計画を立て、実行したのは、ドイツ留学から帰ってすぐのことであった。それから五十年余りが経過し、老境に入った静六は「人生計画」のイロハをまとめ、体系化しようと着手した。
昭和十八(一九四三)年に来日して、折から講演旅行をしていたドイツの著名な地政学者エブナー博士が静六の住む歓光山荘を訪ねた。二人の話ははずみ、人生論へとおよんだ。エブナー博士は、静六が説明する『人生計画』の草稿を見ながら、言葉を尽くして褒めた。
「人生計画学は、世界の人々の求めるところであるが、これは、非凡の才能と、長寿とが備わらないとできない仕事だ。ゲーテも筆を染めたが、稿半ばにして逝ってしまった。あなたの手で成し遂げられたとは素晴らしいことだ」
この言葉に背中を押され、静六は人生計画を仕上げるにいたる。
【計画生活があってこそ「人間」と呼べる】
人間とは計画生活を行う動物なのだ。
◆本多静六が考えた、人間と動物を分けるもの
「人間は社会的動物である」(セネカ)
「人間とは道具を使う動物である」(カーライル)
「人間とは笑う唯一の動物である」(ベルグソン)
古くから、賢者たちは、人間をさまざまに定義してきた。小説家のマーク・トウェインは、「人間は顔を赤らめる唯一の動物である。あるいはそうする必要のある唯一の動物である」とユニークに切り込んでいる。
しかし、静六は、こう唱える。
「人間とは計画生活を行う動物なのだ」
まさに静六の人間観がうかがえる定義である。動物は経験と本能で生きている。その行動は行き当たりバッタリで、計画性と言えるものはない。
しかし、人間の生活には、どんなにデタラメな人でも、本質的に計画性がみられる。この点が、人間と動物との画然としたちがいになっている。とすれば、みずからの「人生計画」を、より計画的・組織的・創造的に行うことが、人間の存在を高めることになるのだ。