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名家・名門の世界
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歴史
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第二章 日本の衣食住を変えた人々

『名家・名門の世界』
[著]インデックス編集部 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:1時間8分
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我々の暮らしに当たり前のように存在している、さまざまな日用品や食品。それらの誕生までの道のりには、先人たちの苦労や努力が積み重ねられている。この章では、こうした偉人たちの足跡を辿りながら、それぞれの業績を紹介する。


別府を観光地に育て上げた実業家 油屋熊八(あぶらやくまはち)

▼生没年:1863年〜1935年
▼出身地:愛媛県宇和島市

別府温泉の歴史

 日本有数の温泉地・別府(べっぷ)。『万葉集』にも「血の池地獄」のことと思われる「赤湯の泉」などの記載があるほど、長い歴史を有している。古くから湯治場(とうじば)として利用されており、鎌倉時代中期には温泉奉行(ここでは、豊後(ぶんご)国・大友(おおとも)氏により派遣された役人のこと)が置かれたという。

 ただし、街道はなかなか整備されなかったようで、それが行なわれたのは江戸時代になってから。これにより瀬戸内方面からも客が訪れるようになり、庶民の温泉湯治が一般的に行なわれる一因となった。

 また、湯治生活の必需品だったザル(炊事に用いる)などの竹細工や、つげ細工が作られるようになったのもこの頃。現在、国の伝統的工芸品に指定されている「別府竹細工」の源である。

熊八、富豪から無一文へ

 そんな別府温泉を一大観光地に育て上げたのが、油屋熊八(あぶらやくまはち)だ。宇和島(うわじま)の米問屋に生まれ、30歳のときに大阪で米相場師として成功。築いた富から「油屋将軍」と呼ばれるほどの羽振りの良さだったが、日清戦争後に相場に失敗、全財産を失った。

 35歳で渡米、3年間の滞在中にキリスト教の洗礼を受ける。帰国後、もう一度相場にチャレンジしたもののうまくいかず、その後、渡米時に別府に身を寄せた妻を頼り、当地へ赴く。そして、亀の井旅館(現在の別府亀の井ホテル)を創業した。

別府のアイディアマン

 アメリカ帰りの熊八は、発想のスケールもアメリカサイズだった。大阪の上空からビラをまいたり、「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」と書いた標柱を富士山にかつぎあげて立てたりと、当時は誰も思いつかない奇抜なアイディアを次々に出し、実行した。

 また、『新約聖書』から引いた「旅人をねんごろにせよ(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)」を合言葉に、客の急病に対処できるよう看護師を常駐するなど、独自のもてなしを展開。現在の別府温泉観光の定番といえる、源泉「地獄」を周遊する地獄めぐりを生み出したのも熊八だ。

 こうした数々のアイディアが集客に結びつき、今日の別府温泉につながっているのだ。

◆温泉マークの考案者?

 温泉の位置を示す地図記号、いわゆる「温泉マーク」。これは、熊八の時代に別府温泉のシンボルマークとして用いられたという。彼の考案者という説もあるが、それによると人の手形から思いついたそうだ。温泉が有名になるに伴って一般化したというものである。

 しかし、もっとも有力といわれるのはドイツ起源説。19世紀のドイツの地図に、温泉マークとして描かれたのが最初ということだ。




インスタントラーメン開発 安藤百福(あんどうももふく)

▼生没年:1910年〜2007年
▼出身地:台湾

チキンラーメンの誕生

 世界中で食され、宇宙デビューも果たしたカップヌードル。そして、さきがけとなったチキンラーメン。開発者はご存知、安藤百福(あんどうももふく)。日清食品株式会社の創業者でもある。

 戦後の日本は、戦後の深刻な食糧不足の中にあった。アメリカから援助物資の小麦粉が送られてくるものの、作られるのはパンばかり。小麦粉を使えば、うどんもラーメンも作れるのだが、当時の日本には量産技術がなかった。

 これが契機となって、安藤は自宅の庭に小屋を建て、研究をはじめた。どんぶりに入れて、お湯を注ぐだけでおいしく食べられる簡単なインスタントラーメンである。こうして生まれたのが「チキンラーメン」で、昭和33年(1958年)当時、1袋35円。大卒者初任給が約1・3万円の時代のことである。

 チキンラーメンはまたたく間に人気商品となったが、同時に追随する業者が雨後の竹の子のように現れた。これに対し安藤は、チキンラーメンを商標登録した上で、昭和37年(1962年)に即席ラーメンの製造法で特許を得る。しかし、わずか3年で製法特許権の公開・譲渡をはじめた。特許権は、出願日から20年有効である。これを大幅に前倒しした安藤の行動が、インスタントラーメンのあふれかえる現在の日本を作ったともいえるだろう。

 また食品業界で初めて製造年月日を記載したのも、日清である。

カップヌードルの誕生

 さて、日本を制した安藤は、アメリカへの進出を考えていた。だが、アメリカにはどんぶりがない。どうしたものかと苦慮しているところに、アメリカのスーパー店員がチキンラーメンを2つに折って紙コップに入れ、お湯を注いでフォークで食べる様子を見た。これがカップ麺へとつながり、昭和46年(1971年)、世界初のカップ麺「カップヌードル」がアメリカで発売になった。

 日本では、翌年のあさま山荘事件で一躍売り上げを伸ばした。というのも、この事件の折に、日清が警察にカップヌードルを半額で提供したのである。そして、テレビ中継の視聴者は、厳寒の長野県軽井沢(かるいざわ)で機動隊員が湯気の上がるカップヌードルを食べている様子を見て、興味を持ったのだ。

ミスター・ヌードル

 戦前に生まれた安藤が死去したのは、平成の世も19年がすぎた2007年であった。亡くなる前日まで、毎日欠かさず食べていたチキンラーメンは長寿と健康に秘訣だと、彼は語っていた。

 訃報は日本のみならずアメリカでも報道され、ニューヨークタイムズでは「ミスターヌードルに感謝」という見出しとともにその業績を称えた。



点字の日本語表記に成功 石川倉次(いしかわくらじ)

▼生没年:1859年〜1944年
▼出身地:静岡県浜松市

点字のはじまり

 視覚障害者が、触覚で読む点字。バリアフリーやユニバーサルデザインの普及により、近年さまざまなものに併記されるようになっている。

 点字のはじまりは17世紀のイタリアで考案されたものだが、現在世界中で使用されているのは1825年にフランス人のルイ・ブライユによって開発された6万点字である。これの日本語表記に成功したのが、石川倉次(いしかわくらじ)。明治23年(1890年)のことである。

点字との出会い

 石川は千葉県で小学校の教師をしていたが、教育のかたわら国語やカナ文字に関心を持ち始めていた。そして、出入りしていた研究所で、訓盲唖院(くんもうあいん)(東京の盲学校)の専務・小西信八(こにしのぶはち)と出会い、彼に誘われて1886年、盲学校の教師になるのだった。

 明治20年(1887年)、盲学校で点字が導入された。ところがこれは、アルファベットをそのまま用いたもの。そこで小西は、カナ文字にあった点字ができないものか相談し、石川による日本語表記の点字ができあがった。

 これは、1890年11月1日に正式に採用された。ここから、同日は「点字の日」となっている。また石川は「点字器(点字を打つ道具)」や「点字ライター(点字が打てるタイプライター)」も開発しており、日本点字の父ともいえるだろう。

 ちなみに、点字の英語表記は「braille(ブレイル/フランス語読みでブライユ)」である。これはもちろん、ルイ・ブライユが由来。また、ブライユ式点字の意味で表記する際は「Braille」になるそうだ。

◆さまざまな点字
点字図書。視覚障害者に読書の楽しみを与えた点字本の恩恵ははかりしれない。

点字ブロック。これを発明したのはなんと日本人である。

自動販売機のコイン投入口。さりげない所にも点字は普及している。

駅には券売機のそばに点字の料金表がある。



ブラジル移民功労者 上塚周平(うえつかしゅうへい)

▼生没年:1876年〜1935年
▼出身地:熊本県熊本市

日本とブラジルの思惑

 明治41年(1908年)、日本から初めて、正式なブラジル移民が南米の土を踏んだ。上塚周平(うえつかしゅうへい)は、その一団170家族・792人を率いた人物である。

 当時、ブラジルは農業労働者不足に陥っていた。奴隷制度の廃止に伴い、ヨーロッパから移民を受け入れたものの、イタリア人移民が奴隷とほとんど変わらない待遇に反乱を起こしたため、移民事業が中止に追い込まれたのである。

 同時期、日本ではそれまでの移民先だったアメリカでの日本人移民受け入れ制限により、移民受け入れ先(海外の出稼ぎ先)を探していた。そんな双方の思惑が一致して、ブラジルと日本の移民事業は始まった。

移民事業に着手

 日本人移民の多くはコーヒー農園で働いたが、先述のヨーロッパ移民同様、待遇はひどいものだったという。しかも、出航の遅延により到着時には収穫期がすぎていた上、豆も不作だという有り様で、経営者と移民の間でトラブルが多発した。貧困のあまり抜け出す者も続出、翌年残っていたのは、170人ほどだったという。

 このような状況でも、移民事業は続く。上塚も、そのたびに代理人としてブラジルで活動し、移民たちを出迎えてきた。

 そんな中で彼が感じたのは、移民社会の事業の不統一性である。これが日本人移民の発展を阻害しているのだと認識して、移民政策の統一に奔走。しかし受け入れられない。そして、ついに「それなら俺がやってやる」と一念発起、大正6年(1917年)に自ら移民事業を興したのである。

生涯を捧げた移民事業

 サンパウロ州政府では、大正9年(1920年)まで5千人の日本人を受け入れることを承諾。多くの日本人移民を雇うため、サンパウロ州に土地を確保するなど、奔走する。そのかいあって資金にも余裕が出るようになり、移民たちの暮らし向きも良くなっていった。

 彼の活動は、移民事業だけにとどまらなかった。大正14年(1925年)頃、干ばつや革命動乱に見舞われてしまい、借金にあえいでいた日系人を救うべく、日本政府に融資の説得も行なっている。

 上塚は生涯独身であった。だが、移民たちを思い奔走した彼はまさしく「ブラジル移民の父」であり、その子孫たちは今もブラジルで生き続けているのだ。

サンパウロ市中心地に隣接する日本人街・リベルダージ。世界最大の日本人街といわれる。街名の意味は「自由」。



江崎グリコ創業者 江崎利一(えざきりいち)

▼生没年:1882年〜1980年
▼出身地:佐賀県佐賀市

カキの煮汁からひらめいた

 江崎グリコといえば、何はなくとも玩具付きキャラメルの「グリコ」だろう。名前の由来は今更いうまでもない、グリコーゲンである。

 家業の薬種業を営んでいた江崎利一(えざきりいち)は大正8年(1919年)、有明海で漁師たちがカキの煮汁を捨てているのを見かけた。そのとき、以前薬業新聞で読んだ記事を思い出す。「カキには、エネルギー代謝に必要なグリコーゲンがたくさん含まれている」。

 ということは、煮汁にグリコーゲンが入っているのでは? そう考えた江崎は大学に分析を依頼。そして、多量のグリコーゲンが含まれていることを確かめると、「すわ、グリコーゲン!」とその活用を考え始めた。

 当初は、薬種業だけあって薬への利用を模索する。しかし、分析を依頼した教授から「治療より予防が大事」といわれ、ならば健康作りの一助にしようと決意したという。

子供が手軽に摂取できるように

 では、グリコーゲンをいちばん必要としているのは誰か。もちろん、育ち盛りの子供である。そこで、子供が喜んで食べられるように、当時人気だったキャラメルに入れようと思い立った。そして大正10年(1921年)、家族で大阪に移転、家を借りてキャラメル作りを開始。それがグリコの発端である。

 知っての通り、グリコはハート型をしている。これは健康を思い遣る心を表し、また角のない形にすることで口当たりを良くしようとしたという。今でこそ簡単にできるハート型だが、当時やわらかなキャラメルを成型するのは、至難の業である。しかし、四角いキャラメルではほかと変わらない。そこで江崎は、自社でハート型のキャラメル生成器を作った。形がゆがんだり、壊れてしまったり。そんな試行錯誤を繰り返して完成したのが、「ハート型ローラー」である。

 ちなみに、新発売は大阪の三越だった。まったくの無名だった江崎グリコが市中の小売店で扱ってもらうために、まずはもっとも信用のある店で売り出す作戦に出たのであった。以来、技術開発を繰り返して、よりよいハート型を作り子供たちの目と舌を楽しませ続けている。
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