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生き方・教養
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●身のほどをわきまえる日本人

『神社ツーリズム』
[著]東條英利 [発行]扶桑社


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 日本という国はわが母国と思いながらも、その姿はやはりどことなくユニークに映る。多分、多くの方からすれば「どこが? フツーじゃん!」などと(いぶか)しく思われる方もいるかもしれないが、いざ海外に出てみると、思いのほか私たち日本人の持つ“常識”が通用しない場面に出くわすことも少なくない。例えば、日本人が好む「曖昧さ」はその最たる例で、「何が食べたい?」と尋ねられ、「何でもいい」と、何とも日本人にありがちな曖昧模糊とした生返事をしている人たちの会話を耳にしたことはないだろうか。仮に、「本当は、○○が食べたいのになぁ……」という思いが心のどこかにあっても、周囲に波風が立つことを必要以上に嫌うせいか、適当、かつ曖昧に返してしまう日本人は思いのほか多い。私もこれでいつもカミさんに責められる(笑)。もちろん、このような遣り取りはもっとも些細な事例なのかもしれないが、意見を求められたときに自己主張を控えるのは、日本人の典型的な行動様式と言って差し支えないだろう。


 良く言えば、他者に対する「気配り」、悪く言えば、単なる「八方美人」という言葉でも説明できるが、これは、日本人の心の中に対社会という「公」の意識が深く影響しているからだ。少し前に、場の空気が読めない人を指して、その頭文字を使い「KY」などと揶揄する風潮が広まったが、これはその象徴的な言い回しのひとつと言えるのかもしれない。実際、日本人の主体性は、「個」(Private=個人)よりも、「公」(Public=社会性)を優先させる傾向が強い。それは、私たちが普段から使っている日常会話からも容易に窺い知れる。


 私が香港で仕事をしていたときもっとも困ったのが、英訳不可能な日本語を相手にどう伝えるべきかという問題だった。仕事仲間との間で交わす「おつかれさま」という挨拶は、まさにその代表的なものだろう。実際に英語でこれを言おうとすると、相当する表現が見当たらないのである。もし、“Thank you for your hard work”なんて言えば、あまりに長ったらしい表現で、冒頭に軽く交わすような挨拶にはなり得ないし、“Hey! Mr. hard working man!”などと直訳しようものなら、相当の変わり者だと思われるのがオチだろう。だから、私も赴任当初、開口一番何と言おうかと悩んだものだが、結局、すでにある英語の慣用表現を無難に使いこなすなどして、その場をしのいだ記憶が残っている。
「おかげさまで」という挨拶も同様である。これも、「私の今ある成功や安定は、決して自分一人の力によるものではありません」という、相手への謝意を前提とした物言いだが、これをストレートに英語に言い換えようとすれば、これまでの人生を事細かに説明させられる羽目になり(笑)、とてもじゃないが、手短な挨拶になどなり得ない。言葉を尽くしてきちんとした文章の体裁にすれば、ある程度相手に伝えられるかもしれないが、手短なひと言で謝意を示せるようなフレーズが英語には見当たらないということだ。これも、個より公を尊重する日本語ならではの表現と言えるだろう。


 ちなみに、かのオノ・ヨーコ女史を従姉妹に持つ外交評論家の加瀬英明氏によれば、ジョン・レノンは日本語を相当勉強していたとし、なかでも、この「Okagesamade(オカゲサマデ)」という言葉が、「世界でもっとも美しい」と話していたと指摘している。そんな氏曰く、ジョン・レノンは生前、伊勢神宮にも、そして、靖国神社にも参拝し、日本の神道にかなりの理解を示していたとしている。これには私も非常に驚かされたが、そんなジョン・レノンをも魅了したのが、こうした日本語に代表される利他の精神ではないだろうか。

 そんな個人よりも社会を強く意識した日本語のなかでも、とりわけ象徴的と言えるのが、「謙譲語」と分類される言葉遣いだ。相手を立てようと自らを敢えて下に置き、へりくだった言い回しで言葉を交わすという慣習は、日本以外の国ではほとんど聞いたことがない。損得勘定の合理性が優先される世界では、自分を卑下するかのような言い回しは理解しがたいものなのだ。特に欧米では、個人と社会を敵対的に評価する傾向がある。その重点はどちらかといえば個人に置かれ、社会とは、あくまで個人間の合意のもとにつくられた法律を始めとする最低限の契約であり、そのルールにのっとってさえいれば、個人の裁量によって主体性が保証されるという考えなのだ。それはむしろ、個人の権利を守るために、便宜上、社会が存在するかのような捉え方と言っていいだろう。


 これに対し日本社会では、個人の権利を主張するよりも社会を(おもんぱか)った価値観のほうが高く評価され、それが綿々と受け継がれてきた。社会に対する配慮は、言葉のみならず、潜在的意識となって、すでに私たちのDNAに深く刻み込まれていると言ってもいいくらいだ。


 例えば、このような経験はないだろうか。オフィスで、すでに自分に割り当てられた仕事は終わっているのに、終業時間が過ぎても誰も帰るそぶりを見せないので「帰りづらい」と感じたり、有給休暇が十分に残っているにもかかわらず、休みを取っている同僚が誰もいないので「休みにくい」といった気持ちになるのは、ルール以前の意識の問題だ。これは、社会というものを単なる機能体として見るのではなく、多くの人々が関与する意識の集合体と捉えているためで、これを最大限尊重しようとする自主的配慮にほかならない。

 一方、これが欧米社会ならばどうだろう。契約の名に基づく権利が優先されるので、他人がどう思うかなど忖度しない。決められたルールにさえ従っていれば、それ以上干渉される必要はないと考える。「自分さえ我慢すれば面目が保たれる」という発想が、日本では理解されても海外ではほとんど通用しないのはこのためで、むしろ一部の外国人からは、日本人の言っていることは本音ではないと訝しがられ、何か裏があるのではないかとあらぬ嫌疑をかけられることすらあるほどだ。もちろん、どちらが正しいという話ではないが、所変われば考え方も変わるという点は、改めて肝に銘じておいたほうがいいだろう。

 それでは、日本人はなぜこれほどまでに社会を強く意識するのだろうか。外国人の友人は、「目に見えないヒエラルキー(=階級社会)が存在しているから」と喩えていたが、これはそんな単純な話ではない。というのも、公の精神を重んじる最大の理由は、日本人の心の奥底にある「身のほどをわきまえる」という独自の価値観によるもので、これは、神道の源泉にもとづくアニミズム(自然信仰)の考えからきている。


 私たちを取り巻く大自然は人智を越えたものだ。その雄大さ、偉大さを前にしたら、私たち人類など取るに足りないちっぽけな存在に過ぎない。特に私たち日本人は、先の東日本大震災を通して、自然の恐ろしさというものをいやがうえにも痛感させられたはずだ。どんなに科学技術が進歩しようとも、自然のすべてを解明することなど到底不可能で、確率論として真相に近づくことはできても、必ずその限界を突き付けられる。ゲリラ豪雨や竜巻、台風、地震、そのいずれも、人類は今もって克服できずにおり、ましてやそれが、太古の時代であればなおさらのことだ。自然の脅威は、いかに人間が無力な存在であるかを知らしめ、先人たちに「身のほどをわきまえる」という意識を芽生えさせた。これが日本人の、自然に対する、そして公に対する、心構えとなっているのだ。


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