読者の中で、忙しくてたまらんと「ぼやいた」ことのない人は、おそらくいないのではないでしょうか。我々はいつだって忙しい。仕上げなければならないことが次々に舞い込み、決められたノルマもあれば突発的な用件もある。ときには仲間のバックアップも必要ですし、予想外の仕事が割り込んでくることもある。こちらの気力や体力にも限度があります。
けれども、忙しいからこそ生きている手応えを覚えることもある。少なくとも、仕事の内容に納得がいき、こちらの努力を認めてくれる他人が存在し、頑張った成果が見えるようであれば、そこにはまぎれもなく充実感が横たわっている筈です。自分の能力や存在価値を実感できるわけですから、喜びに似たもの、いや喜びそのものを味わえましょう。
先日、焼き肉屋へ行ったら隣のテーブルには四人連れのサラリーマンがいました。なにかのプロジェクトが、苦労の末にようやくゴールに辿り着いたようで、その打ち上げを兼ねて飲み食いをすることになったようでした。
「いやあ、あのときはどうしようかと気が遠くなったなあ」
「無理もないですよ、普通はそこでお仕舞いですもんね」
「いやまったく。あんなことが閃くなんて、自分でも信じられないよ。わはははは」
といった調子で、互いに褒め称えたり自画自賛している。そんなやりとりを耳にしながら、わたしはただもう率直に、楽しそうだなあと思ったものでした。自分もあの仲間だったら、どんなに会話が弾んだことか。ビールも、もっと美味く感じられたのではないか。
作家の村松友視氏の本で、無理難題を頼まれる話を読んだことがありました。執筆者の一人が締め切りを過ぎても原稿を書き上げられない。このままでは雑誌に空白の頁ができてしまう。そこで、短篇小説を三日で書き上げてもらえまいか(無理を承知でお願いするのだが)と編集者に泣きつかれる。まあ常識的に考えて、不可能な頼み事です。ところが村松氏はそれを引き受ける。そのときの心境を、「仕事師」としてあえて引き受けたといった意味のことを書いていました。普通の感覚だったら無理なことなど承知しているが、腕の優れた伝説的な殺し屋だとか絶対に白状させる「取り調べの名人」、間違いなく観客を興奮させるイベント・プロデューサー、百%相手にイエスと言わせてみせる交渉人――そうした人々と同様の、無理難題だからこそ俺の出番だという「仕事師」のモードへ自分の気持ちを持って行くことで、むしろその難しさを楽しむようにして作品を期限内に書き上げてみせたのでした。
もちろん自分に自信があったのでしょうが、ときにはそんな無謀なことに挑んでみてこそ仕事には面白さが生まれてくるのでしょう。おまけに困り果てた人を助けるというのは、まさにヒーローです。