井上靖の短篇小説に、「大洗の月」という作品があります(昭和二十八年発表)。ストーリーは単純で、会社を経営する佐川という多忙な男が、ふと仲秋の名月を大洗海岸で観ようと一人で出掛けます。そして田舎町の古道具屋を覗いたことがきっかけとなって、ある著名な日本画家の贋作を描いている老人(つまり事実上の詐欺師です)とその妻、古道具屋の主人と四人で、いささか鬱屈した気分で酒を飲みつつ月を眺める――それだけの話です。
この話で興味深いのは、なぜ佐川が急に月見を思い立ったかという理由です。大洗で観る月が美しいという知識はある人物から示唆されるのですが、佐川が腰を上げた理由は何であったのか。