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ルポ・エッセイ
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◆水の中の吸い殻

『待つ力』
[著]春日武彦 [発行]扶桑社


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 時間が常に流れているからこそ、「待つ」という行為が成立するわけです。いや、待っているときに限って時間の流れがスローになってしまうから(少なくともそう感じられてしまうから)、我々はげんなりしてしまうのでした。

 ならば、時間の流れが止まってしまえばどうか。「待つ」は成立しなくなる。待つことと引き換えに手に入れられるであろう何かは永久に手が届かなくなってしまうものの、それはそれで期待感に振り回されずにすむのですから、いっそ気楽であるかもしれません。

 時間さえ流れなくなれば、全ては凍結となります。あるいは棚上げになる。また流行が一巡してきたら着る機会もあるだろうと未練がましく箪笥(たんす)の奥に仕舞っておく「流行遅れの服」は、もはや二度と着ることがないのを内心では承知しながらも貧乏臭い後ろめたさから捨てられないわけですが、同じように未来や希望も時間が止まってしまえば頭の奥に仕舞い込まれ、やがて「どうでもいいや」となる。葛藤とか決断どころか諦観すら不要になるのですから、こんな手軽なことはありません。

 たとえば強迫神経症の患者には時間が流れません。他の本でも書いたことがあるのですが、わたしは一時期(精神科医になる前のことです)、確認強迫に取り()かれたことがあります。早い話が、火の始末が気になって外出ができなくなった。当時は独り暮らしで煙草を吸っていました(今でも禁煙なんかしていません。喘息気味なので仕方なく休止しているだけで)。家から出掛けると、たちまち火のことが気になってきます。いや、心配なんかする必要はない、ちゃんと灰皿で揉み消してコップの水を掛け、ガス栓も指さし呼称でチェックしたではないか、と胸の中で(つぶや)いて自分を安心させようとする。だが別の思考、不確実感と名付けられた思考がツッコミを入れてきます。確認したつもりでも詰めが甘いのは昔からじゃないか。消えたように見えた煙草の火がゾンビのように復活して、そろそろ机の上の郵便物やメモや雑誌や書類へと跳び掛かっている頃合いなんじゃないのか、と。するとたちまち炎が室内に広がっていく映像が見えるような気がしてくる。部屋の中が明かりを灯したように輝き、みるみるオレンジ色の炎が燃え広がっていく。

 不安の余りに出先からタクシーを使って駆け戻ったこともありますし、誰も居る筈のない自宅へ電話をしてみたこともあります。コール音が聞こえると、それがまだ「焼け落ちていない」証拠のように感じられたからです(実際には、焼け落ちて電話が消失していてもコール音が聞こえることを後日知りましたが)。こんな調子で火の始末が心配で外出が困難になってしまいました。煙草を止めればいいだけの話と思われましょうが、慢性の不安感を鎮めるために余計に吸いたくなるし、自分は煙草を本当に吸わなかったかどうかがまた疑惑の材料となってしまう。

 仕方がないのでスクリューキャップのついた清涼飲料水の瓶を灰皿代わりにすることにしました。吸い終えたらキャップをきっちり締めて酸素を遮断する。ガラス越しに消えたことが分かりますがそれだけでは安心できない。しばらくしたら瓶の中に水を入れてまたキャップを締め、しっかりとシェイクする。水中で吸い殻がばらばらにほぐれ、水がタールで濁るのが確認できます。が、まだそれでも足りない。瓶をそのまま冷蔵庫に入れてしばらく置き、あらためて取り出した瓶を頬に当て、ひんやりした感触を実感してやっと納得がいくのでした。こんな調子ですから、出掛けようとしても「儀式」でひどく時間を要してしまう。不便なことこの上もありません。

 この時期、わたしにとって時間は流れていなかった気がします。思考はいつも出掛ける直前の室内の様子へと回帰し、気分はいつでも足踏みしている。疑惑と不安とに囚われたまま、実に不毛な日々を過ごしていたのでした。「待つ」なんて営みは優雅としか思えなかった。今現在を背負うことすらできなかったのだから。

 薬を飲んだり、カウンセリングを受けるなどの治療は一切行いませんでした。いつの間にか強迫神経症は治っていた。今から振り返ってみますと、専門分野を産婦人科から精神科へと替えるべきか否かで迷っていた時期と重なります。わたしにとっては一種の博打でした。しかも人生そのものに関わる。面倒なことがいろいろ予想されましたし、多くの人に不義理をすることも分かっていました。自分の人生について、初めて真剣に向き合ったときでもありました。その重荷に耐え切れなくなり、いつしか時間の流れから逸脱した状況へと逃げ込んでいたようにも思えるのです。厄介なことを考えるよりは、ある意味でシンプルきわまりない「火の始末はどうした?」という疑惑に拘泥(こうでい)していたほうが気楽であったのかもしれません。だから強迫症状に対し、治って欲しいが治ってしまったら現実と直面しなければならなくて嫌だ、と矛盾した気持ちを抱いていたのでした。

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