古代に聳え立つ高層建築
平安時代の出雲には、高さ四八メートル(地面から床までの高さ三〇メートル)、加えて前面に長さ一〇九メートルの長大な階段を持つ高床式の建物が聳え立っていた。出雲大社本殿である。
平安時代初期の学者である源為憲は、社会常識を子供たちに教えるために書いた『口遊』(天禄元年・九七○)の中で、当時の大きな建物をランクづけして次のように書いている。
「雲太、和二、京三(大屋の誦をいう)。今案ずるに雲太とは出雲の国城筑明神の神殿をいふ(出雲の郡にあり)。和二とは大和の国の大仏殿をいふ(添上の郡にあり)。京三とは大極殿八省をいふ」
東大寺の大仏殿は、平安末の源平の争乱で治承四年(一一八○)に戦火で焼かれているが、その前の高さは十五丈(約四五メートル)だったと伝えられている。従って、為憲の記述通りならば、出雲大社本殿の高さは四五メートル以上あったことになる。
当時の出雲大社本殿の姿を知る上で貴重なのが、祭祀家である千家出雲国造家に代々伝わる『金輪造営図』である。この図は国学者の本居宣長が著書『玉勝間』(十三の巻)に載せたことで有名になった。
この『金輪造営図』について宣長は「出雲大社の御事」と題して、「出雲大社の神殿は、上古は三十二丈[約九六メートル]あり、中古は十六丈[約四八メートル]あり、今の世は八丈[約二四メートル]也。いにしへの時の図を金輪の造営の図といひて、今も国造の家に伝えもたり」と解説している。
この図で驚かされるのは、一番細い柱でも直径が一丈(約三メートル)もあることである。そして、九本の柱すべてが三本の柱を金輪で締めて一本にされており、これが図面の名の由来だと考えられている。
さらに、本殿に取り付けられた「引橋」の長さは一町(約一〇九メートル)もある。そのため、このような高層建築を、古代に、しかも木材で建てることが本当にできたのかと疑う識者もいる。
しかし、記録によれば、平安時代の中期から鎌倉時代の初めまでの二百年間で本殿は六度も倒壊している。しかも、柱の中ほどが折れるというような倒壊の仕方をしていること、造営に四年から六年、場合によってはそれ以上の工期を要していること、さらに、「大厦ノ神殿ハ神徳ニ非ズ」として規模が縮小された鎌倉時代以降、そのような倒壊は起こっていないこと──これらの事実を考え合わせると、やはり古代の本殿は、記録されている通りの高層建築だったと考えざるを得ない。
この見解を裏付ける出来事が二つあった。一つは、昭和六十三年に(一九八八)ゼネコンの大林組プロジェクトチームが行った図上での古代出雲大社復元の試みである。その結果、高さ約四八メートルの本殿が再現され、しかも、この巨大な本殿の建設は、構造上も技術上も可能であるとの結論が出された。この時の研究は後に『古代出雲大社の復元』(学生社、一九八九年)という本にまとめられている。それによれば、古代出雲大社本殿の建設は、総工期六年、総作業員数一二万六、七○○人、総工費一二一億八、六○○万円という巨大プロジェクトであったという。
もう一つの出来事は、平成十二年から十三年にかけて、出雲大社の境内の三カ所で巨大な柱が発見されたことである。それぞれの柱は、直径約一・三五メートルの杉材三本を一組にしたもので、さしわたし約三メートルもあった。このような掘立柱の地下構造は、史上最大で世界に例を見ない。科学分析の結果、これらの柱は、宝治二年(一二四八)に造営された本殿跡の可能性が高いとされた。こうして、『金輪造営図』の信憑性が一挙に高まったのである。
巨大な本殿は神話に由来する
ところで、なぜ、古代出雲大社本殿は、これほどまでに高く造られなければならなかったのだろうか。それは、出雲大社創建の神話に由来している。
神話によれば、日本の国土を開発した大国主神が天津神に国譲りをした時に、天津神と大国主神との間で、天津神が大国主神の住居を造り、その住居は「天の住居のように、大盤石の上に宮柱を太く立てて、高天原にとどくほど千木を高く聳えさせる」(『古事記』)、「その宮を建てる基準は、柱は高く太く、板は広く厚くする」(『日本書紀』)との約束が交わされている。
この約束に従って、大国主神は、幽界にあって、皇室と国家の繁栄と安泰を祈る役割を引き受けたのである。つまり、出雲大社の本殿の巨大さは、神々の約束に由来し、大国主神が天照大神を中心とした天津神に臣従する前提なのである。
ちなみに、鎌倉時代以後に規模が縮小されたといっても、延享元年(一七四四)に造営された現在の出雲大社本殿は、依然として高さ二四メートルの巨大な木造建築である。そして、現宮司である千家尊祐氏の祖先は、高皇産霊尊から大国主神を祀ることを命じられた天照大神の第二子・天穂日命であって、尊祐氏は天穂日命から数えて八十四代目に当たる。周知のように、天照大神の第一子は天忍穂耳尊で、その子が瓊瓊杵尊、またその子が彦火火出見命、またその子が初代の神武天皇で、その神武天皇から数えて百二十五代目に当たるのが今上陛下である。(新田均)