人類の宝と呼ばれる正倉院の宝物
「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」(『万葉集』巻三─三二八)
と歌われた八世紀の聖武天皇の時代の奈良は、まさに「今盛りなり」という言葉を思わせる豊かな時代であった。
巨大な青銅彫刻の盧舎那仏をおさめた、壮大な東大寺の伽藍が完成し、日本各地に七重塔とともに国分寺・国分尼寺が建設された。聖武天皇は、藤原家の光明皇后とともに生涯その豊かさを背景に、内外の多くの品々のコレクションを行ったのである。
その天皇が崩御されたのが天平勝宝八年(七五六)であったが、皇后の嘆きは大きく、その嘆きは美しい哀悼文となり、その文の最後には、「生前に帝がお使いになったものを眼にすると、その頃のことを思い出して、泣き崩れてしまいます。(だから)それらの御遺愛品を、謹んで盧舎那仏に献じ奉ります。どうかその善因によって極楽往生を遂げさせてあげてください」と書かれた。
その遺愛品が、正倉院の品々になったのである。