『サンデープロジェクト』(以下、『サンプロ』)がスタートしたのは、一九八九年四月二日のことだった。日曜日の午前一〇時から一一時四五分までの生番組である。
正直に言うと、始まったばかりのころは、私を含めて、プロデューサーやディレクターたちにも「この番組をこういうものにしよう」というはっきりした方向性を持っていたわけではなかった。いわゆる“ワイドショー”として始まった。担当部長は古川喜彦氏、プロデューサーは山本肇氏、そして朝日放送の和田省一氏であった。ただ、いま振り返ってみると、番組が八九年という年に始まったことが、この番組のその後の性格を決めていったのではないかと思えてならない。
この年の一月七日に昭和天皇が亡くなり、日本は昭和から平成という新しい時代に足を踏み入れていった。にもかかわらず国内政治はといえば、前年の六月一八日付『朝日新聞』がスクープした川崎市助役への利益供与疑惑に端を発した「リクルート事件」の火の粉が、中曽根康弘、安倍晋太郎、宮澤喜一、そして当時の首相だった竹下登など大物政治家に飛び火し、大混乱の中にあった。
『サンプロ』が始まってすぐの四月二一日には、中曽根証人喚問について与野党の幹事長・書記長会談が行われたが決裂し、国会審議はストップしてしまう。四月二五日になって竹下首相は、退陣を表明して事態を収拾し、予算案を国会で通そうとするが、あくまで中曽根証人喚問を求める野党は矛先を納めようとしない。そこで自民党は、四月二七日の予算委員会で予算案の単独強行採決を行い、翌二八日には自民党単独の本会議を強行開会して予算案を採択してしまう。予算案の強行採択は憲政史上初めてのことで、自民党への批判が高まることになる。そうした中での五月末、竹下は政権を宇野宗佑に譲り、首相の座を去っていく。昭和から平成の世になっても、相も変わらず「政治とカネの問題」で政界は大騒ぎしていたのだ。
経済的にも、八九年は大きな節目となった年である。振り返ってみれば、まさに「バブル経済」が絶頂期を迎えた年だったのだ。
しかし当時は、すぐに消えてなくなる「バブル」だとは誰も思っていなかった。わたしは「虚の繁栄ではないか」と疑問を持ち、雑誌『文藝春秋』でレポートを書いたのだが日本の大手シンクタンク一〇社以上を取材して歩いていくと、ゆく先々で「田原さん、これを虚の繁栄などと言っていたら、あなたはジャーナリスト生命を失いますよ」と笑われたものだ。結局、その取材をもとにしたわたしのレポートも腰砕けに終わってしまった。あのままで終わらせてしまったことは痛恨の極みであり、いまでも残念でならない。
ただし、その繁栄は、まさにわたしが予測したように「虚の繁栄」でしかなく、バブルでしかなかった。八九年が絶頂期で、二年後にはバブル崩壊へと一気に突き進んでいくのだ。八九年という年は、太陽が地平線の向こうに沈む時にひときわ輝く夕日のようなものだったのかもしれない。