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1 写真読解の怪

『行間力』
[著]宮川俊彦 [発行]扶桑社


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◎一枚の写真から何を読み解くか

 受験生に人気があるという公立の中高一貫校入試に、湯気の立つ、底浅の茶碗に盛られたご飯を映した写真が出題されました。

「次の『ごはん』の写真を見て、あなたが考えたことを分かりやすく書きましょう」


 ボクの長年の教育提言としては、こういう課題こそ意味があると思っています。

 ただの記憶など、携帯辞書でも持ち込んだら何とでもなります。歴史の年号などもそうです。問題は、そうした断片をいかに関連化して総合していくかです。真の学力とは、そうした総合力として培われるもので、テストや入試にも総合力を試す課題が出されるべきだと考えています。書き取りや読みなどは基礎常識なのだから、入試には出す必要はないとさえ思います。

 ところで、その写真について、某受験塾では、「ごはんについて」の作文を書くのだとその解説指南に述べていました。その解説文を読んだ時、最初は研究室で生徒たちと笑い合っていたのですが、しだいに暗鬱な気持ちになってきました。

 この解説は愚物です。「読解」「洞察」ができていません。

 写真はたしかにごはんが中央に写っています。だからといって「ごはんについて」としていいのでしょうか。そこに表現されているものは何なのか。

 その写真には、背景もあれば、構図もあります。瞬間でもあるし、場面でもあります。撮影者の意図も考えられるし、出題者の意図も考えなければなりません。「ごはんについて」書けばいいというわけではないはずです。

 背後の黒い空間と、照射されているごはんの中央部。ここに黒白のコントラストもグラデーションもあります。それだけでも、書くのに値する十分なテーマになります。中心に当てられている光もあれば、周辺の影もあります。スポット・ライトを当てられたものと、当てられなかったものというテーマで書くこともできます。たとえば、三人組の歌手が均等にはカメラに写らず、真ん中の人が目立つこと、バックコーラスのままで歌手を終える人もいるということを書くこともできます。見えるものを写しながら、見えないものを示唆しているのかもしれません。

 あるいは、ごはんはひょっとしたら、新素材でできた実物そっくりのディスプレイ(模型)かもしれません。こういう見方をすれば、模倣や開発といったこともテーマになります。

 また、ごはんの盛り方をテーマにすれば、習慣や文化に入り込むこともできます。

 出題者の意図を読んでみるのも、撮影者の目的に肉薄してみるのもいいでしょう。お碗そのものから、器や受け皿に、話を展開していくこともできます。さらには、「盛る」とか「載せる」「よそる」という動詞に着目して書くこともできます。

 このように、一枚の写真を題材にして、本来は、きりがないくらいに話を展開していくことができるはずなのです。

 しかしこうした解説を読んだ受験生は、「ごはんについて」書くことを余儀なくされます。たとえ自由な思索の飛翔をしたとしても、それはひょっとしたら求められている答えとは違うのではないかという不安にとらわれてしまうのです。そして無難にまとめようとすることになります。

 しかし、もしも出題者側に、多様な思索や分析を除外する基準があったとするならば、それを是認するわけにはいきません。無論そんなはずはないと思っています。なぜなら、もしそんな意図があったとするなら、「ごはんについて述べよ」という設問でよかったはずだからです。

 ビジュアルの持つ多大な情報量は、無限の「読解」をうながしています。それを規定したいのならば、条件をつければいいのです。

 この広範な理解をうながす課題は、実に哲学的で、子どもの総合力と学力、識見、資質をみるには絶好の設問ですが、子どもたちに、果たしてそこまでの読みができたのかどうかは疑問です。ただ冒険ではあっても、こうした入試出題は「前進」というべきでしょう。

 愚物の解説者は、ごはんについて、その知識、日常のエピソードなどを書くようにうながしているのでしょう。百歩譲って、これを大悟の解説で、無難な合格指南だとしても、視界と視点とを限定してしまったことと、本人の洞察、展開が語られないことから不充分だというべきです。

 しかし実際問題として、受験の場で、受験生が本当に自己の洞察や分析で語れるのかどうかといえば、いろいろなテーマ設定に思いをめぐらせてはみても、結局は無難なところに落ち着くような気がします。

 適応にはそんな逡巡もあるのだとすれば、その理不尽さがかえって若い感性を磨き、進化変革への原動力になるともいえるのですが……。

 いずれにしても、写真を折ったり、破ったり、部分強調したり、裏返したり、拡大したりなどということをしようとする者は皆無でしょう。ましてや、黒白反転なんてことに思いをめぐらすことはないでしょう。実に守旧的、秩序維持的です。これは創造的な学問の姿勢ではありません。

◎玉虫色の文章にこそ、知性の輝きがある

 それならば、あれかこれかの二元論かといえば、そうでもありません。それこそ無限の「読解」を含めつつも、確信犯的に例えばごはんを軸にするとか、一文一言でその自己の思料を示すとか、そこには個々の持つ総合力が求められます。むしろそのほうが重要だといえます。

 往々にして、ボクらは決まった文面と根拠と素材と言葉で描いて処理しています。これを官僚的と呼んで見下していますが、いや、どうして、示唆的なものは多くあります。それよりもわかりやすさを求めている文書や記事の方がよほど定式化しています。批判さえ何十年も定式化しています。こうやっておけばいいんだよ、という文には、マス目を埋めた無難さはあっても、ほとばしる言外の(しずく)はありません。箱に収まっても、そのまま沈澱して乾燥しています。

 玉虫色の文とか表現というのは、よくないことのようにいわれていますが、とんでもないことで、高度の表現とは、そうした性質を確実に備えているものです。それこそ入試や昇進論文など、高度な玉虫色を獲得している文章にこそ知性の輝きが感じられます。

 具眼者はちゃんと見抜くものです。

 入試とその解説というようなことに、さほど関心があるわけではないのですが、出題されている作文の課題を見る限り、そこには表現教育的な性質をほとんど感じることができません。日本の大衆水準は、ノウハウをマスターして生きることにいまだ汲々(きゅうきゅう)としている段階のようです。「暗黙知」のレベルをもっと上げていかなければなりません。

 前章で取り上げた題材のように、「行間読解」の基礎・応用の訓練は必要なことです。しかし、ここまで教育熱があるのに、「行間読解」の成果はなかなか上がりません。それは、日本の近代教育、とりわけ戦後教育が、思索を活性化させるようなものではなかったことに原因があると思っています。
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