老いとは、諦めである。小林旭はそう思っている。
「この歳になって、同窓会とかに顔を出したりするだろ。そうすると、みんな昔話ばっかりなんだ。懐かしいのはわかるよ。俺だって、そういう思いに駆られることはあるんだから。だけど、なあ──」
昔は良かった、と旧友たちは口を揃える。小林とて、昭和の時代は良かったと思っていないわけではない。少なくとも、彼にとっての平成が、昭和ほどには喜びにも輝きにも満ちていなかったことは事実だからである。
「新幹線の中で大金の入ったバッグを盗られてそれっきり、なんてこともあったなあ。こっちはすぐにJRに連絡したんだけど、結局は出てこなかった。数百万円がそれでパーだよ。平成の思い出っていうと、そんなのばっかりなんだよな。俺にとっちゃあ、ロクな時代じゃない」
だから、懐古に耽る仲間たちの気持ちはわからないでもない小林である。だが、古き良き思い出に浸りきるには、いまを諦めなければならない。希望を、夢を、若い時代のみに許された特権だったと諦めなければならない。
彼には、それができなかった。老いを色濃く漂わせた旧友たちの顔を眺めると、小林は、老いとはいまを、未来を諦めることによって生じるのではないか、と思う。
彼は、まだ諦めていない。諦めていないがゆえに、内面にはいまだ怒りというマグマがうごめいている。愚痴を含んだ老性の怒りではない。純粋な怒り。熱い怒り。若かりし頃から、幾度となく突き動かされたエネルギーが、小林の中では変わらない熱量をもってうごめいている。
「で、俺の何が聞きたいんだい?」
柔らかい日差しが差し込む自宅の広大なリビングで、使い込まれた革張りのソファにどっかりと腰を下ろした小林は、独特の酸味が効いた大好物の小豆茶を2つのコップになみなみと注いだ。
ヒトラー・ユーゲントの来日を日本中が歓迎した昭和13(1938)年、小林は生まれた。
ジッとしているのは嫌いだった。チョロチョロ動いては怒られ、また動いては殴られる、そんな、どこにでもいる子供だった。
6歳の時、第二次世界大戦が終わる。日本の敗北を告げる玉音放送の前で泣き崩れる大人たちをジッと観察した。
そんな小林少年のヒーローは「ターザン」だった。物心つくと夢中でジョニー・ワイズミューラーを真似、朝から晩まで家の近くの等々力渓谷で蔓にぶら下がって遊んだ。
当時から喧嘩は強かった。動物と話し森を守る心優しいターザンに憧れていた小林は、弱いものいじめや、群れるという行為が大嫌いだった。売られた喧嘩はもちろん、しょっちゅう誰かのために人を殴る。
いつの間にか、歩くとサーッと人が避けるようになった。そしていつの間にか歩かなくても人が避けるようになった。
小林が児童劇団に入ったのは小学校4年生の時である。照明技師の父と、小唄の師匠を母に持つ小林にとって、芸の世界へ足を踏み入れることはごく自然な流れだった。
その後、大部屋を経て、昭和31年に銀幕デビューを果たす。
芸名は正真正銘の本名、小林旭──。
「いまになって思えば、芸名にしときゃよかったなと思うこともあるよ。ビジネスの世界に足を踏み入れた時は、特にそう思ったな。情を排したシビアなカネの話をしようってときに、『わたしはね、昔からあんたのファンだったんだよ』なんて言われちゃうと鬼になれないだろ? 書類の上に“小林旭”って名前があれば、向こうはこっちをただのビジネス・パートナーとは思っちゃくれない。向こうがそう思っている以上、こっちもビジネスのみで割り切るってわけにはいかなくなる。