では、日本の神話にはどう書かれているのか。それはまず日本が島国であったというところからはじまっている。神様がこの島国をつくられたというのであるが、これはどこの国の神話を見ても、神のような存在がこの世をつくったという話になっている。その点では似たようなものである。
ただ、日本の神様は単に「国をつくった」というのではなく、「島国をつくった」と明確に書いてある。そしてつくった島の名前も詳細に書いてあり、そこに佐渡島まで出ている。ここから、日本の王朝を立てた民族は少なくとも船で日本を回った経験があるであろう、という推測ができる。
すなわち騎馬民族説というのははじめから成り立たないのである。したがって、日本の皇室を中心とする支配民族、後に大和朝廷をつくり日本の国の根幹となった人たちは、だいたいは南方系と考えてよいだろう。
その理由として、京都大学の原勝郎博士は日本の政財界・学界の要請に従って英文で書き、英米で出版した大著『日本史入門』(『An Introduction to The History of Japan』・一九二〇年)の中で、次の四つの理由を挙げている。
第一に住宅のつくり方が高床式になっている。記紀(古事記と日本書紀)には先住民族が穴の中(竪穴住居)に住んでいたというような記述が見られるが、日本をつくった民族は高床式住居に生活している。高床式は冬の寒さをしのぐよりも夏に涼しさを求める建築様式であり、そこに暮らした人々が明らかに南方系であることを示唆している。
第二の理由は、日本人の米に対する異常ともいえる執着心である。それは近代になって北海道のような寒冷地にも米を作るという情熱に変わったが。米はご存じのように南方植物であって、これはいわゆる騎馬民族の国に生えるものではない。
第三に勾玉というものが考古学的には重要である。というのは、勾玉は百済と日本にしか発見されていないからである。ここから推測されることは、おそらく南のほうからやってきた民族がやや北のほうに逸れていったのが百済、すなわち朝鮮南部に住み、主力は九州に上陸し、そこから大和地方にも行ったのではないか、ということである。
事実、神話の記録はすべてそこからはじまっていて、初代の天皇である神武天皇も大和に向かうときは船でずっと海岸伝いに進んで行ったことが書かれている。
第四の理由としては、宗教の儀式で禊が重要視されることである。禊とは水をかぶるものだから、これは南方系の儀式と考えて間違いない。
これら四つの理由は、いずれも日本人の実感として無理なく理解できる説明になっているといえるだろう。