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コンプライアンスが日本を潰す 新自由主義との攻防
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経済・金融
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はじめに

『コンプライアンスが日本を潰す 新自由主義との攻防』
[著]藤井聡 [発行]扶桑社


読了目安時間:22分
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◆今まさに潰れようとしている国、日本


 今まさに、急速に「日本という一つの国」が潰れようとしています。


 日本という国は、長い時間をかけて、途中でどこかの国に潰されたり支配されたりすることなく、今日まで「一貫」した歴史と伝統と文化を紡ぎ続けてきました。ところが、まさに今、この長い歴史とそれに裏打ちされた伝統と文化をもった「日本」という国が、本当に急速に、潰れようとしています。

 もちろんそれは、この日本列島が完全に破壊されたり海の底に沈んだりすることを言っているのではありませんし、この極東の島で生まれた「ニホンジン」が全滅してしまうということではありません。恐らくは、この日本列島はこれからも残っていくでしょうし、ニホンジンも、これから長らく生き続けていくことだろうと思います。

 ここで、「潰れようとしている」と申し上げているのは、「長い歴史の中で一貫して守られてきた日本」です。つまり、たとえ同じ生物的な遺伝子を持ち、この極東の島に生息していたとしても、歴史も文化も伝統も何もかも昔と入れ替わってしまったとしたら、もうそれは、生物学的に「ニホンジン」と言うことはできても「日本人」とは言えません(それは、昔のアテネの民と今のギリシャ人が違うのと同じことです)。同じように、そんなニホンジンばかりの国になってしまったのなら、その国はもう「日本」とは呼ぶことのできない、例えば、「ニッポン」とでも呼ぶべき国になってしまうでしょう。

 あるいは、次のように説明すると分かりやすいかもしれません。

 社会学には、社会や国を一つの「有機体」「生き物」と捉えるという、伝統的な考え方があります(この考え方は一般には、社会有機体説と言われます)。この考え方で言うなら、「日本」というのは、いわゆる古代の時代に、この日本列島の上で生まれた「一つの生き物」であって、その「生き物」が2000年もの長きにわたって生息し続けているというわけです。一方で「アテネ」という生き物は古代に死に絶えてしまい、今、かのギリシャに生息しているのは、最近生まれた「近代ギリシャ」という生き物だ、という次第です。

 さらに具体的に言うと、次のように説明することもできます。

 例えばかの飛鳥時代の聖徳太子が十七条憲法に記された「和を似て貴しとなす」という条文は、驚くべきことに、平成のこの御代ですら、多くの人々が直感的にその意味を十二分に理解し、しかも、できるだけ、そのように振る舞おうとしているのではないかと思います。このことは実は、聖徳太子の御代の人々の精神が、千数百年の時を越えて、私たち平成日本人の精神の内に、間違いなく引き継がれていることを意味しています。つまり、私たちは確かに、未だ「ニホンジン」ではなく「日本人」なのです。そしてそうである以上、今の私たちの国はニッポンではなく、辛うじて未だ日本と呼ぶことができる国なのだと思います。

 ところが、こうした日本人の精神そのものが、今、根底から壊され、2000年の長きにわたってこの日本列島の上に生息し続けてきた「日本という一つの生き物」が、今まさに息を引き取ろうとしているのです。そしてその崩壊に大きく貢献しつつあるもの──それが、「コンプライアンス」なのです。

◆法律改定と共に注目され始めた、コンプライアンス

 この「コンプライアンス」という言葉は、日本語では「法令遵守」と訳されるのですが、多くの場合、法令遵守よりもより広い意味で使われています。そもそもコンプライアンスというのは、コンプライ(comply)という英語の名詞形です。そしてその英語は「〜に従う」という意味で「comply with〜」というように使われるのが一般的です。つまり、コンプライアンスとは、法律の条文とか、あるいは、その「考え方」そのものに従うこと、を意味します。

 この言葉は、最近では、様々な企業やサラリーマンたちの間で使われるようになってきました。書店にはコンプライアンスについての様々な書籍が並べられてもいますし、多くの読者もまた、コーポレイトガバナンスや内部統制、CSR等の目新しい言葉と同時に「これからはコンプライアンスが大事だよ」なんて言葉を耳にされることが増えてきたのではないかと思います。

 このように近年俄にコンプライアンスが重視されてきたわけですが、その背景には、90年代後半あたりから、金融商品取引法や新会社法、建築基準法、労働者派遣法等の様々な日本の法律が、急激に改定されてきたことに、その直接的な原因があります。

 その中でも特に「独占禁止法」を強化する方向の改正によって、それまでの日本人の普通の常識的な振る舞いが、いきなり「法律違反」として取り締まられるようになってしまいました。

 それまでの企業は、様々な法律が存在していたものの、法律の運用と、企業の慣習的な振る舞いの間に、今日ほどの大きな乖離(かいり)はなく、「良識的」な人々が「常識」に従って振る舞ってさえすれば、大きな問題が生じるようなことは、ほとんどなかったわけです。

 ところが、様々な法律が改定され、「良識的」な人々が「常識」に従って振る舞っていてもなお、「法律違反だ」と言われたり「不祥事」になってしまうようになってしまったのです。例えば、昨日まで普通にいろんな付き合いでお酒を飲んでいたのに、ある日突然、両者の関係が「甲乙の関係」であるから宴席を共にすることそれ自体が「法律違反の悪いことだ」と言われるようになってしまいました。あるいは最悪の場合は、「良識的」な企業や企業人が「常識的」に振る舞っているだけで、「独占禁止法違反」になってしまい、「不祥事」として大きくマスメディアなどで報道され、社会的に大きな政策を加えられるようなことがしばしば発生するようになってしまいました。

 こうした状況の中、良識的な真面目な人々は、まさか「法律そのものが悪い!」と声高に主張することもできず、どうしていいか分からなくなってしまい、ただただ戸惑ってしまうこととなったのです。

 そんな中、登場したのが、「コンプライアンス」という言葉だったのです。

 いわば、法律が変わってしまって、どうしていいか分からなくて困ってしまった時に、上から降ってきた、有り難い蜘蛛の糸、それが「コンプライアンス」という言葉だったのです。だから人々は、とりわけ、不祥事を起こしたくないと考える人々は、企業防衛、さらには自分自身の防衛のために、つまりは「リスク回避」の観点から、このコンプライアンスという言葉に飛びついたわけです。

◆コンプライアンスとは何か?

 さて、この「コンプライアンス」ですが、この言葉は様々なビジネス書等では、おおよそ次のように説明されています。


  「コンプライアンスとは法令遵守ということですが、ただ単に、法令に従っていればそれでいい、というわけではありません。コンプライアンスとは、その法令の背後にある考え方や、いろいろな社会通念に従うことなのです」


 こういう説明を耳にした時、多くの人々は次のように感じたのではないでしょうか。


  「そうか、やっぱり、杓子定規に法律に従ってりゃいいってもんじゃないんだな。確かに、その新しいナントカ法ってのはなんだかヘンテコな法律だし、そのまま従うなんて、どうも窮屈だと思ってたんだよ。よかったよかった」


 つまり、新しい法律の「法令遵守」に悩まされ続けてきた良識ある人々は、「コンプライアンスは単なる法令遵守ではありません」という説明を耳にした瞬間に、コンプライアンスという言葉にちょっとした安心感を感じ、ある種の好意的な気持ちを抱くこととなるわけです。

 そして、コンプライアンスの説明を研修なり、読書なりを通して「理解した」人々は、さらに、次のように感じたことでしょう。


  「その『法律の考え方』ってのをおおよそ理解して、それと、自分たちが普通に持っている常識的な『社会通念』とをミックスさせて、で、そのミックスしたもんに従えばいいんだな」


 ──筆者は「コンプライアンス」と名の付くあらかたの書籍全てに、今回改めて目を通しましたが、どうやらそれらの書籍はいずれも、このような格好で人々を説得するかたちでコンプライアンスを説明しているようでした。

◆コンプライアンスが仕掛ける「罠」

 ところで、本書で指摘しようとしている今日の「コンプライアンスによる危険性」は、コンプライアンスが「人々が持っている社会通念と、新しく作られた法律の考え方とをミックスさせよう」とするものである、というところにあります。

 ここで言う「社会通念」とは、お天道様に顔向けできないことをしてはいけない、卑怯なことをしてはいけない、あるいは、商人というものは「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間善し)でなければならない──といった類のものです。

 その一方で、その社会通念とミックスされてしまうところの「新しい法律の考え方」なるものは、我々の社会通念の中にはない、何やら理想主義的な机上の空論のような理念です。

 例えば、独占禁止法であるなら「自由な競争を保証することが善なのだ」という思想を基本としていますし、新会社法なら「会社というのは、株主のものなのだ」という思想が色濃く含まれています。

 これらの思想はいずれも、理想主義的な空論的理念です。

 そもそも「とにかく、それ以外のことはどうでもいいから自由な競争が保証されさえすればそれでいい」と考える常識人は少ないでしょうし、「会社は社長や労働者のものではなく、全て株主のものなので、社員は全て株主の奴隷だ」なんて心の底から信じ切っている常識人もほとんどおられないでしょう。

 いずれにしても、もしもそういう「理想主義的な理念」に基づいて様々な経営判断をしてしまえば、例えば、「独占禁止法の理念」に従って自由な競争を保証するあまり、多くの人々が不幸になるような、お天道様に顔向けできないような判断をしてしまうことがあることでしょう。

 あるいは、「会社法の理念」に従って、投機的な動機しか持ち合わせていない株主たちの言いなりになれば、そんな理念さえなければ絶対に手を染めることのないような卑怯な真似をしてしまうことだってあるかもしれません──。

 しかも、当たり前ではありますが、「コンプライアンス」という概念は「法令遵守」を否定するものではなくむしろ「含む」ものです。ですから、独占禁止法や会社法に背くことそれ自体は、如何に「コンプライアンス」といえども、許される話ではありません。もしも、独占禁止法や会社法に背いてしまえば、結局は、何らかの「制裁」を受けざるを得ないのです。

 いわば、法令に従うだけでなく、その背後にある考え方に従うことを、「制裁」という「脅し」をちらつかせながら、人々に強要するもの──少々意地悪く言うなら、それが「コンプライアンス」の実態だと言うこともできるのです。

 それなら、法律の考え方それ自体を「馬鹿馬鹿しい」と(さげす)みつつ、行動の上においてのみ「法令遵守」をしている、例えば「和魂洋才」のやり方のほうが、まだ、「社会通念」が傷付かずに保守される分、コンプライアンスなんかよりもずっと「(たち)がいい」とすら言うことができるでしょう。なぜなら、コンプライアンスは、行動だけではなく、精神そのものも法令に「屈服」させようとするものだからです。


 ここに、「コンプライアンス」が日本を破壊してしまう力を、つまりは日本という一つの有機体を死に追いやる力を秘めていることを、見て取ることができます。

「法令遵守」ではなく、「コンプライアンス」という耳あたりの良い言葉を使えば、最終的には、日本の伝統や文化や国柄とは何の関係もない「理想主義的な理念」を、日本人の精神に注入し続けることができてしまうからです。

 そんなふうにして潜在意識に働きかける取り組みを何年も何年も繰り返せば、早晩、日本の国の仕組みは根底の部分から熔解してしまい、日本人がニホンジンに、日本がニッポンになってしまうのではないか──コンプライアンスは、こんな恐ろしい「破壊効果」を持っているのではと危惧されるのです。


 とはいえ、中には、
「そんな大袈裟な」
とお考えの読者もおられるかもしれません。


 もちろん、新しくつくられた「法令」そのものが、私たち日本人にとって「薬」のようなものであるなら、コンプライアンスを進めることは、日本の文化的、社会的発展にとってよい影響を与えることでしょう。しかし、その「法令」が、「毒」のようなものであったとすれば──先に危惧したように、日本人がコンプライアンスに真面目に取り組めば取り組むほど、日本そのものが壊れていってしまうことでしょう。

 ですから、コンプライアンスが日本を潰すか否か、という問題は、近年改定され続けてきた新しい「法令」の多くが、日本人にとって「毒」なのか「薬」なのかという一点にかかっているということができるわけです。

 しかし──誠に遺憾ながら、様々な客観的な事実を踏まえるなら、最近の様々な法令の改定は、「日本」という一つの有機体にとっては「毒」でしかないだろう──本当に残念なのですが、これが筆者の結論なのです。

◆日本の破壊を目論む勢力

 あるいは、次のように言うこともできます。

 そもそも、日本の内にも外にも、自分たちがやりたいことをやろうとする時に、「日本的なるもの」の存在が邪魔で邪魔で仕方がない、という人たちがいるのです。

 代表的なのは、世界でも有数の規模を誇る「日本市場」を狙っている海外の人々です。日本国内の文化的な風習があれば、自由に商売をすることはできませんが、「日本的なるもの」が綺麗さっぱりなくなれば、自由に商売をして、利益を得ることができるようになるからです。それはちょうど、映画「アバター」の物語のようなものです。人類が他の星の鉱山採掘をするのに、邪魔な先住民が住んでいる、だから、その先住民の社会を根こそぎ破壊してやろう、と考えるあのストーリーと同じ構造を持っているわけです。

 そしてもう一つは、とにかく、「自分が理想とする社会」と「現実の日本社会」が全く乖離しているので、是が非でも、「自分が理想とする社会に、日本社会をつくりかえたい」と熱心に願い続けている特定の人々です。こういう人々は、経済学の中でもとりわけシカゴ学派と呼ばれる一つの派閥を代表とする「新自由主義」の人々の中にたくさんおられ、残念ながら、日本の中にも、学会やマスメディア、そしてあろうことか政府(永田町や霞が関)の中にもたくさんおられます。彼等にしてみると、日本的な風習の中で日々の暮らしを続けている日本人たちはバカで愚かな人々であって、とっとと彼等が理想とする「自由主義経済人」に生まれ変わって、彼等が理想とする「自由主義経済世界」をこの世に実現すべきなのだと純粋に願い続けているのです。

 この2つの勢力が互いに上手く共闘しながら、日本的なるもの、日本人的なるものを「破壊」することそれ自体を企図として、様々な法律が改定されたり、新しく設置されたりしているわけです。また後ほど詳しく説明しますが、昨今話題になっているTPPもまた、この2つの勢力の結託が大きな推進勢力となっているのです。

 いずれにしても、もしもそうであるとするなら、新しくつくりかえられてきた「法令」は、おおよそ「日本」という一つの有機体/生命体にとって「毒」であるのは、間違いない、と言えるでしょう。だからこそ、そんな「毒」そのものですらある法令に、多くの日本人が健気に真面目に、行動のみならず精神や思想そのものも「コンプライアンス」して(=従って)いけば、残念ながら「日本」の破壊が、現実に進行してしまうのは避けがたいであろう──これが、本書で述べようとしている中心的主張です。

 言うならば、彼等は、意図的か意図的でないかはさておき、法律があればとにかく真面目にそれに従って(コンプイアンス)しまう日本人の国民性につけ込み、法律を改定することを通して、日本社会そのものを、彼等が望む方向に改変していっているのです(ところで、英語の用法に従うなら、「従う」という動詞は「コンプライ」ですが、あまり馴染みのある言葉ではありませんので、本書では、動詞の場合も「コンプライアンスする」という使い方をいたしたいと思います)。

◆自ら日本を壊し続ける日本人

 しかし、日本の破壊を目論む勢力は、無理矢理、日本人の一人一人の精神の内に入り込んで、日本人を彼等のつくり上げた法律に従うことを強制し続けているわけではありません。

 実を言うと、そんな法令に従っている、コンプライアンスしているのは、真面目で、健気な、日本人自身なのです。

 自主的に、半ば嬉々としてそんな法律を「押し頂き」続け、それに従い、コンプライアンスし続けているのです。

 そもそも「コンプライアンス」という言葉を推奨しているのは日本人ですし、その言葉に有り難がって飛びついて、流行らせてしまっているのもまた日本人です。

 ただし、こうした構造は、何も最近になって日本で見て取れるようになったのではありません。

 実は、第二次世界大戦後、日本人が嬉々としてコンプライアンスし続けているものがあります。

 かの、日本国憲法です。

 この憲法は、よく知られているように、当時日本を占領していた一部のアメリカ人たちが、彼等が理想とする社会を築き上げるために書き上げたものです。

 言うまでもありませんが、「自由・平等・博愛」を象徴的なキーワードとする彼等の理想と、現実の「日本」との間は大きく乖離しています。ですから、この憲法問題こそ、「コンプライアンスが日本を潰す」ことについての日本史上最大の問題だということができます。

 多くの日本人は、(一条などの一部を除いて)この憲法が日本の国柄にはどうしてもそぐわないものであり、改正すべきだということを主張しています。しかしまた別の人々は、たとえ押しつけられたものであったとしても、その理念は素晴らしいのだから、憲法を保守し続けるべきだ、と主張し続けています。

 この両者の議論は収束することもなく、その結果、この憲法はそのままの形でずっと保守され続けています。そして、日本社会の有り様に甚大なる影響を及ぼし続けています。

 なお、冗談のような話ですが、当時の憲法草案を書き上げたアメリカ人に後日、「未だに日本国憲法は一つも改定されずに運用され続けているんですよ」と伝えたところ、「そんな馬鹿な」と愕然とされておられたそうです。

 ──つまり日本人は、そこに法令があれば、たとえそれがどこかから押しつけられたものであっても、真面目に、健気に、「コンプライ」し続けてしまうという性癖を、拭いがたく持っているようなのです。しかも、その真面目さ健気さたるや、それを押しつけた、当の本人が、それを押しつけたことすら綺麗さっぱり忘れてしまった後でもなお、従い続けるほどに、凄まじく純度の高いものなのです。

◆日本が潰れることを防ぐために

 筆者は、日本人にこの、「ついつい真面目に健気に法令に、心(精神)も体(行動)も従い続けてしまう」という「馬鹿に無邪気なコンプライアンス根性」とでも言うべきものがあり、かつ、「日本」に対する好意ではなくある種の悪意に基づいた「法令」がこの国に存在する限り、日本が潰れていくことを防ぐことはできないだろうと思います。

 そもそも、コンプライアンスは「服従する」ということを意味しています。そしてさらには、それは「媚び、へつらう」ことを意味するものでもあります。ですから、いたずらに喜び勇んで「これからはコンプライアンスだよ、コンプライアンス」などと口走りながら無邪気に、よそから与えられた価値観なり考え方に従い続けるのは、結局は、それを持ち込み、かつ、それに従わなければ制裁もあり得るのだと脅しをかける“強者”に対して「媚びへつらいながら、服従している」ということと同じなのです。

 ──こう解説してもなお、「それで我が身が守れるなら、それでいいじゃないか」と考える人々がおられるかもしれません。しかし、たとえそう口走ってしまう方でもやはり、心のどこかで「この自分が、強者に対して媚びへつらいながら服従している」という状況に対しては、やはり「モヤモヤ」する気持ちがあることは違いないでしょう。なぜなら、どんな人であれ、媚びへつらう自分の姿を客観的に眺めた時(例えば、自分の“息子”の視点で眺めた時)には、何とも言えない情けない気持ちを持つに違いありません。

 いずれにしても、ここまで情けない状況に追い込まれている私たちの、この閉塞的な状況を打開するには、どうすればいいのでしょうか──。

 筆者は、その対策には、基本的には次の2つの方法があるだろうと感じています。

 一つは、綺麗さっぱり、「馬鹿に無邪気なコンプライアンス根性」を捨て去り、より「自分の心で正しいと思うこと」に従うような「真性のコンプライアンス精神」を身につけることです。

 そもそも日本人は、法律に書かれている事如き、さして気にせず、世間の常識、さらに言うなら、「渡世の筋」を大切にしながら生きてきた民族です。わけの分からない法律にコンプライアンス(=服従)するのではなく、「渡世の筋」にコンプライすることは、生来、得意な民族なはずなのです。

 事実、戦前世代がたくさん生きていた昭和の時代には、教科書に「自由、平等、博愛が素晴らしい!」などと書かれてあっても、そんなタテマエなぞには目もくれず、「仁義なき戦い」だの「兵隊やくざ」だの「網走番外地」だのといった自由や平等や博愛とは何の縁もゆかりもない「渡世の筋」を描いた物語を絶賛し続けたわけです。つまり、我々日本人は皆ほんの少し前までは、心の底から同意できないような外側から与えられたなんだかわけの分からないモノに媚びへつらいながらコンプライアンスなどすることなく、自らの心の内に、精神の内に確かに胚胎されている「何が正しくて何が正しくないのか」という感覚に従って生きてきたはずなのです。今一度、そういう民族の記憶を思い起こすことができるのなら、「馬鹿に無邪気なコンプライアンス根性」を捨て去ることができるでしょう。

 そしてもう一つの方法は、法令そのものを、「日本の実情」さらに言うなら「日本の国柄」にふさわしいものに改変していくことです。いわば、日本人が、今そこにある法令に盲目的にコンプライアンス(服従)するのではなく、逆に、我々日本人の側に「法令システム」そのものをコンプライアンスさせるような努力を重ねていくということです。

 例えば、経済関連の法令であるなら、日本の商習慣を法律策定の議論の出発点に据え、その長所や短所をきちんと総合的な立場から判断し、日本の商習慣の長所を伸ばし、短所を改善するように、法令を策定していくのです。

 これはいわば、日本の商習慣を一つの「盆栽」と見立てる取り組みです。

 日本の商習慣をよりよいものにしていくために、法令を策定することを通して、無駄な「枝」を切ったり、望ましい方向の枝を大切にしたり、そして何より、その盆栽が活力をもって生長していけるような環境を整え、水をやり、虫を取り、肥やしを与えながら、その「形」を、理想的なものに整えていくのです。

 もしもそんなふうにして日本の習慣や国柄を中心とした法体系をくみ上げることができるのなら、日本人特有の「健気に、真面目にコンプライアンスしてしまう特徴」は、まるで宝物のような、日本の能力を向上させるために極めて重要な性質になることでしょう。

 いわば、コンプライアンスについての高い能力は、法令そのものが「毒」であるなら、国を効果的に潰してしまうような忌み嫌うべき悪しき性質となってしまうのですが、法令そのものが「薬」であるなら、その国を大いなる繁栄に導く貴重な「国民的財産」と言えるのです。

 いずれにしても、ただ単に、今、そこにある法令に盲目的にコンプライアンスしているだけでは、私たちの会社や業界、地域や街、そしてそれらを全て含めた私たちの国、日本そのものが、じわじわと潰されていくことは避けられません。だからこそ私たちは、自分たち以外の何ものかに「媚びへつらいつつ服従する」ような盲目的なコンプライアンスを避け、時に(あらが)いながら、あくまでも日本人自身を中心に据えた暮らしぶりや風習、法体系、そして国柄をつくり上げるための努力を続けなければならないのです。


 ──以上が、本書で論じようとしている「コンプライアンスが日本を潰す」の骨子です。


 ひょっとすると読者の中には、本書がコンプライアンスについての本であるため、内部統制やコーポレートガバナンス、CSRといった事柄を説明する書籍なのではないかと思っていたのに、少々趣が異なるな──と感じている方もおられるかもしれません。もちろん、本書は、それらの「コンプライアンス」の諸概念を「解説」したり、マニュアル的な知識を「提供」するものではありません。

 しかし、そんな「コンプライアンス」なる目新しいカタカナ用語が俄に日本社会の中で注目を集めてしまう潜在的な社会構造、あるいは、潜在的な日本人の意識構造を解き明かすと共に、そんな構造の中で、私たち日本人が明るい未来を手に入れるためには何が求められているのか──を明らかにしようとするものです。そうした論考を行う上で、昨今注目を集める「コンプライアンス」(従う、媚びへつらう、服従する)という言葉は、誠に意味深長な内実を持つ言葉なのです。


 ──とはいえ、以上少々急いで解説したため、ところどころ理解が十分に及ばない部分もあったかもしれません。

 ですが、そこは心配無用。

 これから一つずつ、順を追って解説して参りたいと思います。

 それではまず、過剰な法令遵守やコンプライアンスによって、今、我が国にどのような弊害が生じているのかを、確認していくことから、本書を始めることといたしましょう。
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