妻と走った都知事の五輪招致
会場の空気が一瞬、止まった。
2013年9月7日土曜日。冬のブエノスアイレス。東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会の一団が会場の最前列に陣取っている。猪瀬直樹東京都知事の顔がこわばっている。濃紺の招致ブレザーの下には、妻・ゆり子さんの写真を収めた小さな銀色のペンダントを忍ばせていた。
国際オリンピック委員会(IOC)のジャック・ロゲ会長(9月10日で退任)が五輪マークの描かれた白い封筒を開き、確認するように目を落とす。口から待ちに待った言葉が発せられた。
「トーキョー」
続いて、「TOKYO 2020」と書かれた紙を壇上から見せた。
会場からは大きな歓声、拍手が沸き起こる。歓喜の爆発である。最前列の安倍晋三内閣総理大臣が真っ先に椅子から跳び上がった。隣の森喜朗元首相も立ち上がる。ほぼ同時に猪瀬知事も両手を突き上げた。東京五輪招致委員会の一角ではバンザイが起こる。
一番目立ったのは最終プレゼンテーションで登壇し、東京の熱気を伝えたフェンシングの太田雄貴だった。ガッツポーズを繰り返し、「ヤッター!」と咆哮する。すぐさま手で目を覆って泣きだした。滝川クリステルも荒木田裕子も涙を流している。筆者としては、招致委の竹田恒和理事長のホッとした表情が印象的だった。
会場外の報道陣が待ち構える“ミックスゾーン”。猪瀬知事もまた、興奮気味だった。努めて冷静さを保とうとしている。
「チーム・ニッポンで勝ちました。リレーのバトンを途中で落とすことなく、最後まできちんとつなぐことができました」
左手に持つ白い東京五輪招致の小旗を揺らしながら、続ける。
「じつは、いま始まったばかりなんです。7年後に東京オリンピックがくるんです。このオリンピックの旗を掲げることができる。希望の灯りです。一つの国の目標というか、そういうものができたなあと思っているんですよ」
猪瀬知事にとって、悲しみを乗り越えての「勝利」だった。7月21日、ゆり子夫人が悪性脳腫瘍のため65歳で亡くなった。最終プレゼンでは、ゆり子さんの写真の入ったペンダントを身に着けて登壇し、ときどき手で触れながら話した。東京招致が決定したブエノスアイレス時間の9月7日は、ゆり子夫人の四十九日だった。言葉が涙声になった。
「そうなんです。今日は四十九日なんですよ。ロケット(ペンダント)を持って、ずっと家内のことを思っていました。家内が…。応援してくれたと思っています」
最後の「ロビイングの三本の矢」
東京から見ると、地球の裏側になるアルゼンチンの首都・ブエノスアイレス。
9月7日の五輪開催地投票までの数日間、ここでは「五輪招致狂騒曲」が奏でられた。東京五輪招致をカバーするため、現地入りした日本メディアがざっと600人(IOCへの取材申請数)。ライバルのマドリードもほぼ同じ数の報道陣が現地に入っていた。とくにテレビ関係のメディアの過熱ぶりはIOC委員や地元住民を驚かせていた。
運河沿いのIOC委員の宿舎であるヒルトンホテルの周辺に張り込み、委員とみれば手当たり次第に「突撃インタビュー」をしかける。ホテルの出入り口には連日、100人ほどの報道陣が集まった。IOCのひんしゅくを買ったため、9月4日にはついに東京五輪招致委が日本メディアに「取材適正化のお願い」という異例の通達を出した。要はIOC委員への突撃インタビューで東京のイメージを落とさないでほしい、ということだった。
もちろん東京五輪招致委の派遣団約100人のほか、応援団も現地に入り、ロビイング(ロビー活動)に走り回った。これは他都市も同様で、IOC宿舎の1階ロビーは3都市の招致関係者が入り乱れての混乱状態が続いていた。
東京はIOC委員の竹田理事長のほか、水野正人招致委専務理事らが笑顔を振りまき、握手、握手、握手…。ある招致委幹部はつぶやいた。
「3都市とも飛び込みで次から次へ、IOC委員に会っていく。もうメチャクチャです」
最後は、エレガントな高円宮妃久子さまも東京のロビイングに加勢した。マドリード招致の「切り札」フェリペ皇太子ともにこやかに笑いながら言葉を交わす。そのオーラは、絶大なる権力を誇示したサマランチ元IOC会長(故人)の長男、サマランチ・ジュニアIOC委員も驚かせたそうだ。
安倍首相をも、主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)が開催されたロシアから駆け付け、IOC総会の開会式セレモニー後のパーティーに加わった。招致委幹部は、こう表現した。「ロビイングの三本の矢」。東京のイメージアップに貢献したのは、久子さまと安倍首相、竹田理事長の3人だというのだ。
このほか、東京はヒルトンホテルの3階の「ロビイング部屋」を使い、安倍首相ほか岸田文雄外相、下村博文科相、猪瀬知事らが陣取っていた。時には久子さまのお姿も。東京招致関係者がロビーでIOC委員らを口説いて部屋に連れてきては、「東京を頼む」と説得するのである。いわば念押しか。招致委幹部が説明する。
「もう必死ですよ。(IOC委員を)一人ずつ呼んで、東京の思いを伝えるのです」
前回2016年招致失敗を受け、今回の招致活動は戦略がきちんとし、徹底していた。つまり丁寧だった。いや2016年招致からの積み重ねがあったからこその、深くて広い人脈、「総合力」だった。さらには故古橋広之進さんがいたからこその水泳人脈、故松平康隆さんが築いたバレーボール人脈も忘れてはならない。
竹田理事長はこの1年、50カ国以上を飛び回り、IOC委員全員に会って、東京招致を誠実に訴えてきた。森喜朗元首相もロシアやキューバなどに飛んだ。水野正人専務理事も、荒木田裕子招致委理事も、もう数えきれないくらいの国際大会に顔を出し、IOC委員との接触を図ってきた。安倍首相も、外交の合間に東京を売り込んだ。
つまりは「総力戦」で戦った。スポーツ界だけでなく、政界も、財界も、そして事実上、皇族もがロビイングに参加した。最終プレゼンテーションで勝利のカギとなった安倍首相の「福島第一原発の汚染水漏れ」に対する真摯な発言も、東京シンパのIOC委員からのアドバイスを受けてのものだったそうだ。
票読みズバリ! 60対36の圧勝。
投票前日、招致委幹部の票読みでは東京は「40〜45票」だった。マドリードが「35〜40票」、イスタンブールは「10〜15票」だったという。決選投票は相手がマドリードで、東京が競り勝つストーリーだった。
この東京優位の数字の根拠は、「いままでの蓄積」(猪瀬知事)だった。国際陸上競技連盟(IAAF)会長のラミン・ディアックIOC委員(セネガル)と友好関係を築いたこととロビイングの奏功で、アフリカ大陸のIOC票(12票)を押さえる見通しがついていた。
さらには9月10日にIOC新会長になったトーマス・バッハ(ドイツ)の支援も取りつけたことで、ライバル都市のある大票田(44票)のヨーロッパ票も切り崩した。このほか、オセアニアの6票をほぼ確保し、苦戦必至だったアジアの票(22票=竹田会長は投票権がないため除く)も傷口を広げずに済むことになった。
総会出席のIOC委員数が100人。ロゲ会長と候補都市の5人(東京、トルコ各1人、スペイン3人)を外すと、有効投票数は「94」だった。1回目の東京の得票は予定どおりの「42票」だった。トップだ。
ただ、最終結果が出るまで、途中で得票数は公表されない。ここでイスタンブールとマドリードが同数の26票となり、決選投票への進出をかけたタイブレイクが実施された。結果、イスタンブールが競り勝つ。有力候補と言われてきたマドリードが意外にも1回目で落ちることになった。
東京は、決戦投票では50票超まで票を伸ばして競り勝つ戦略だった。招致委の水野専務理事が思い出す。
「最後の最後まで勝つとは思えなかった。最初の投票で東京がトップで抜けたのはいいけれど、(イスタンブールとマドリードの)同数は31か30くらいかなと思っていた。そうすると、トップの東京も票数ではあまり変わらない。決選投票はどうなるかわからなくなる」
だが、実際の票数はもっと少なかった。なぜ追い風が吹いていたマドリードが減速したのか。あるIOC委員は「おごりが反感を抱いた」と説明してくれた。最終プレゼンで故サマランチ会長をアピールしたのも逆効果になったようだ。つまりは戦略ミスだった。
決選投票は、東京が60で、イスタンブールが36だった。予想外の圧勝である。マドリード敗退後の票の囲い込み戦略、最終プレゼンの出来がよかったからだった。東京招致委としては、中南米のIOC委員との信頼関係も築いていた。
結果、マドリードが強いはずの中南米の票(12票)のほとんどが東京に回ってきたようだ。スペインの3人のIOC委員の票も東京がもらうことになっていた。加えて、イスタンブールのなりふり構わないロビイングがIOC委員の反感を招いた可能性もある。
さらに東京は最終プレゼンの出来がよかった。高円宮妃久子さまの感謝のスピーチから、被災地(宮城県気仙沼市)出身でパラリンピアンの佐藤真海の情感あふれる語り、安倍晋三首相による「汚染水問題」の不安の払拭…。IOC委員の心に、すべてが伝わったようだ。
ロビイングの中心人物は言う。
「敵失もあったけれど、東京の汚染水問題の打ち消し方がよかった。ソチ五輪とリオデジャネイロ五輪の準備が遅れていることも、確実な運営能力を誇る東京にプラスに働いた。世界各地からまんべんなく票を獲ることができたことが大きい。東京の本気度が勝った」
IOC委員と太い絆を築いての東京圧勝。そういえば、開催地決定の夜、東京招致団の拠点となったシェラトンホテルの「東京祝勝会」にはディアックIOC委員の外交辞令的な笑顔もあった。
猪瀬知事はブエノスアイレスの街をほぼ毎日、ジョギングした。投票の日はひどい雷雨だった。が、帰国の途につく翌9月8日の空は晴れ渡った。
冬の青空が広がる。雲ひとつない。まるで1964年東京五輪の開会式のときのような、ブルーインパルスが五輪マークを描いたときのような青空だった。
猪瀬知事はこの日も運河沿いを走った。汗が心地よい。チーム・ニッポンで招致レースのゴールをトップで切った。でも終わりは、新たなスタートでもある。
猪瀬知事がホテルをチェックアウトした。その最高級のファエナホテルの外で報道陣の囲みがあった。顔には安堵感があふれている。筆者が最後、しつこく聞いた。「奥様にも朗報が届きましたよね?」。しばし沈黙。知事の目が“涙目”になった。小声で漏らした。
「考えるとつらいものがあります…」
十人十色。いろんな人の思いを乗せてオリンピックが再び、やってくる。
いよいよ東京に、オリンピック・パラリンピックがやってくるぞ!