今回の招致を語るにおいて、やはり前回の東京五輪パラリンピック招致を振り返っておかねばなるまい。招致活動に携わった者にとっては、苦い記憶ではあるが…。
「これはまあ、しゃべったことはないんですけど…」
2013年の真夏日の昼下がり。国立競技場そばの「日本スポーツ振興センター」の2階の理事長室だった。エアコンがほどよく効いている。2016年招致委の事務総長を務めた河野一郎はソファーに体を沈め、穏やかな口調でこう、漏らした。
「終わったとき、招致自体からいうと、よくここまできたなあと思いましたよ。最初に招致委員会(の事務総長)を受けるとき、周りの人は誰もが“東京に勝ち目はないからやめておけ”と言う人ばかりでしたから」
つまり事務総長のなり手がいなかったわけである。だが日本オリンピック委員会(JOC)理事でもある河野は竹田恒和JOC会長の熱意にほだされ、“火中の栗を拾う”覚悟をする。
「自分としては、チャレンジングな招致活動ならオモシロイかなと思ったわけです。やるべきことがいっぱいあるんじゃないかと思って、腹を決めました」
河野は当時の石原知事をよくサポートし、招致委をリードした。周りの人々への気配り、バランス感覚、調整能力は抜群である。東京医科歯科大学時代にラグビーをやっていたからか、とくに「チームワーク」を重んじる。多忙を極めながらも、石原知事とともに世界を飛び回って、「東京」をアピールしていった。
「石原さんじゃないと、(五輪招致に)手を挙げてないでしょ。やっていくなかで、この人となら“できる”と思いましたね。石原さんには頭越しに何かをやるということはなく、必ず相談してもらいました。非常に一緒にやっているという感じでしたね」
石原知事とはどのような人物だったのか?