佐藤さんを見ていると「世の中には、生まれつき頭の良い人はいるのだなぁ」と思ってしまいます。頭が良いかどうかは、生まれた瞬間から決まっていて、勉強をして知識をつけたところで、佐藤さんには、絶対に追いつけない気がします。最近は、そんな気持ちになってしまい、努力する気もおきず、限界を感じてしまい、すぐ諦めてしまいます。佐藤さんは、自分のことを生まれつき頭が良いと思っていますか? それとも、その知力は、努力の賜物でできているものなのでしょうか?
秋山弘毅さん 男性 書店員 37歳
回答35●必要に迫られたことだけを勉強すればいい
大いなる誤解があるようですが、私はまったく頭が良くないのです。頭が良いならば、決して東京地方検察庁特別捜査部に捕まるような下手は打ちません。それから、頭が良いならば、逮捕後、無駄な抵抗などせずに、検察の言うシナリオを丸呑みして、裁判所で頭を下げて、マスコミのさらし者になる期間を極力短くして、早く「第二の人生」を始めたと思います。また、頭が良いならば、田中真紀子氏と鈴木宗男氏にハブとマングースの闘いをさせ、両者を弱らせた上で、始末するという、狡猾で陰険な外務省と全面戦争を展開するなどという損なことはしません。
それから、私は努力家ではありません。外務省を始め中央官庁のエリートには、努力家タイプが多いのですが、こういった連中は、間違えた考え方を持っていることが多いのです。この連中は、「今日の自分の地位があるのは、オレの努力の賜物だ」と考えます。
国家公務員試験や司法試験は教科書の内容を記憶して、どう再現するかという技術的試験で、頭の良し悪しとは無関係なのですが、まあ、この程度の思い込みならば許してやりましょう。しかし、霞が関(中央官庁)官僚には、「公務員試験に受からない奴や、民間企業の連中は努力が足りない」と勘違いしている本質的な馬鹿者が多いのです。そもそも受験勉強に強いのは、両親が「お受験」に関心をもつ家庭に生まれたという偶然の事情によるところが大きいのです。また、大学受験や公務員試験、司法試験にしても、合否には運の要素が混入しています。
私は、1993年10月3・4日にモスクワで内乱に遭遇したことがあります。仕事なので、最前線に出て情報を収集していますが、私は弾に当たりませんでした。しかし、私よりずっと安全な地帯にいたジャーナリストに流れ弾が当たって、そのロシア人は死んでしまいました。私が弾に当たらない実力があったからではなく、たまたま運が良かっただけなのです。私はこの運が良かったことについて、私の御先祖様とキリスト教の神様に感謝することをいつも忘れないようにしています。
誰もが生きていくために必要な知識はもっているのです。秋山さんも、自分が心の底から勉強したい何か具体的なテーマがでてくれば、それを勉強すればいいのだと思います。無理やり知識をつけようとして勉強しても、それは身につきません。私があれこれ、細かいことについて関心をもち、本を読んだり、勉強したのも、私が生きていく上での必要に迫られたからです。特に頭が良いからではありません。
どういう生き方をしても、人生は他人が思うほど、良いものでも、またその逆に悪いものでもないのだと思います。モーパッサンの『女の一生』を読めば、何も諦める必要などないとわかります。勉強について、焦りや苛立ちは必要ありません。人生や仕事で必要に迫られたことだけを勉強すればいいのです。
【参考文献】
『女の一生』
モーパッサン 新潮文庫
1951年刊。貴族階級の清純な娘ジャンヌを主人公に、
結婚の夢破れ、最愛の息子に裏切られる生涯を描いた
自然主義小説の代表作。
日本の自然主義文学にも大きな影響を与えた