イギリス・ハノーバー朝の初代国王。ドイツ人でハノーバー選帝侯だったが、イギリス国王ジェームズ一世の曾孫だったことから、ステュアート朝最後の君主だったアン王女が死去すると、イギリス王となった。しかし、気難し屋で国政に関心が薄かったため、国民の人気はなかったとされる。
醜男の国王の死因は幽閉した美人女王のたたり!?
◆妻を三二年間も幽閉した王
一七一四年、五四歳でイギリスに招かれ王となったジョージ一世は、二八歳のときに従姉妹のゾフィアと結婚し、一男一女をもうけた。ゾフィアはかなりの美女だったといわれるが、なぜかジョージ一世はまもなく彼女を嫌うようになった。
一説には、ジョージ一世は「美人が苦手」という変わった性格で、二人の愛人はいずれもかなりの醜女だったとされる。ジョージ自身が顔にコンプレックスをもっていたため、その劣等感から生まれた嗜好だという見方もある。
ジョージとゾフィアとの仲が決定的に悪化するきっかけは、一六八九年、長女の一歳の誕生日を祝うために開かれた舞踏会だった。夫との不仲に悩むゾフィアは、スウェーデンの貴族フィリップ・クリストフと出会う。美男子で好色だった彼はゾフィアに接近し、彼女と関係をもってしまう。
二人の関係は、まもなくジョージの耳に入る。そして、フィリップの消息はそれ以降不明になってしまった。ヨーロッパ中の人々は、妻と関係したことに怒ったジョージによって、暗殺されてしまったのではないかと噂するようになった。
一方、浮気をしたゾフィアもまた、夫によって厳しい取り調べをされ、アールデン城に幽閉されてしまった。
それ以後、一七二六年に死去するまで、ゾフィアは三二年間もアールデン城に幽閉され、「アールデンのゾフィア」と呼ばれた。もちろん、ジョージがイギリス王になった際も同行することはなく、一度もイギリスの地に足を踏み入れることはなかった。
ゾフィアが死んだときも、ジョージは彼女の公式葬儀を禁じ、アールデンに埋葬すればいいと言い放った。しかし、彼女に同情する人たちは、遺体を郷里に運んで丁重に埋葬したという。
こうした父ジョージの母ゾフィアに対する態度は、息子である皇太子ゲオルク・アウグスト(後のジョージ二世)の心を大きく傷つけた。彼はジョージをけっして許さず、成長してからもさまざまな形で父に反抗した。それに対してジョージも息子に嫌がらせをするようになり、その確執はジョージの死まで続いた。
◆謎の手紙を見てショック死
そのジョージの死にも大きな謎がある。ゾフィアの死から半年ほど経ったある日、ハノーバーへ向かうジョージの馬車に一通の手紙が投げ込まれた。そこに書かれていたのは「神の裁きの場で私と会うがよい。断罪されるのは私ではなくあなただ」という呪詛の言葉だった。これを見たジョージは強いショックを受け、心臓発作を起こしてしまう。そして、まもなく死亡してしまったのだ。
馬車に投げ込まれた手紙は誰が書いたのか。それはゾフィアが生前に書き残した遺書で、死の直前に機会を見つけてジョージに渡すように言い残しておいたともいわれる。もしそうだとすれば、誰が馬車に投げ込んだのか。謎は深まるばかりである。
ジョージの死については、こんなエピソードも残っている。あるときジョージ一世はフランスの女占い師に占ってもらうと、「王妃よりも一年以上長生きすることはない」と予言されたという。そして、現実はその通りになったのだ。
この占いについては、背後に娘が幽閉されたことを恨んだゾフィアの両親がいて、占い師にそう言わせたものだとする見方もある。
いずれにしても、こうした話を聞いた人々は、「ゾフィアのたたりがジョージ一世を殺した」と噂するようになった。
ジョージ一世はイギリス国民からは不人気だったが、それにはイギリスの国政に関心を持たなかったこと以上に、ゾフィアに対する冷たい仕打ちが影響している。本当にたたりで死んだかどうかは定かではないが、そうした噂が広く流れたのも、国民のゾフィアへの同情心からともいえる。