読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-1
kiji
0
1
1067248
0
八重の虹〜新島八重と羽ばたく幕末明治の女性たち
2
0
0
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
はじめに――たよやかに、したたかに生きた日本女性

『八重の虹〜新島八重と羽ばたく幕末明治の女性たち』
[著]加来耕三 [発行]扶桑社


読了目安時間:6分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ




 ――明治元年(一八六八)九月二十一日のことである。

 会津鶴ヶ城がいよいよ、降伏開城すると決った前日の夜、城の三の丸にあった倉庫の白壁に、月の光を浴びながら、自らの(かんざし)を抜いて、

  あすの夜は何国(いづこ)の誰かながむらん

    馴れし御城に残す月かげ

 一首、歌をけずり書きして去った一人の女性がいたという。

 彼女は会津藩が籠城に決するや、七連発の元込銃を女の細い肩に(にな)って、入城し、自ら大砲をも操作して、攻め来る新政府軍と戦った。
「私は着物も袴もすべて男装し、麻の草履(ぞうり)をはき、両刀を手挾(たばさ)んで、元込七連発銃は肩に(かつ)いでまいりました」

 のちに回想する彼女は、女の黒髪を断髪し、夜闇にまぎれての奇襲にも参加している。

 この男装の(ひと)の名を、山本八重(やえ)(のちの新島八重)といった。

 会津藩松平家二十三万石は、江戸期において、最も教育レベルの高い大名家といわれながら、幕末、近代戦の主力=火砲については皆目、用意がなかった。藩財政が行き詰まっていたために、装備できなかったのである。

 それを承知の上で、会津武士はあえて決戦の道を選択し、敗北した。

 一方においては、
「まさか、国境を破られることはあるまい」

 との、根拠のない思い込みもあったようだ。

 婦女子や老人たちの奮戦に比べ、男たちの戦略・戦術のまずさは信じられないほどであり、籠城にあたっての武器・兵糧の運び込み、抗戦時の戦闘方法も満足に準備していなかった。

 それを一人の女性が、まるで補うかのように、籠城戦の中では狙撃手として、また砲手としても活躍したのである。が、しょせんは多勢に無勢であった。

 八重はその後、最初の夫と別れ、明治の世を一転して宣教師の妻としておくり、生きることとなった。夫の名を、新島襄(にいじまじょう)という。同志社英学校(同志社大学の前身)の創立者でもある。

 幕末明治を生きた日本女性は、八重のみならず、たおやかではあったが、一面、とにかくしぶとかった。最後の最後まで、彼女たちは己れを貫いた。生も死も――。

 八重と同じ会津鶴ヶ城の籠城組の一人、会津藩家老・山川大蔵(おおくら)(のち(ひろし))の妻・とせ(十九歳)は、明治元年九月十四日の新政府軍による総攻撃のおり、砲弾の破裂によって(すね)から(もも)にかけて、脇腹へ、右の肩、頬にと各々に、弾の破片を受け、血がドクドクと流れる中を苦しみに耐えながら死去した。

 飛来する大砲の弾丸が、破裂せずに(たたみ)の上や屋根の上に落ちると、その燃える音を聞きながら、水に()らした布団や着物をもちいて、火を消し止めたのは女性たちであった。

 相手は爆発寸前の砲弾である。それを炸裂する前に消しに走ることは、一つ間違えば爆死を意味していた。しかし会津武士の婦人たちは、勇敢にこの役目をはたし、官軍が砲撃の目標とした鶴ヶ城の天守閣を、ついに炎上落城から守り抜いた。

 このとき、九歳の大蔵の妹・山川咲子も城内にいた。

 彼女はのちに「捨松」と名を改め、十一年間のアメリカ留学に旅立ち、帰国後、新政府軍の主力として会津を砲撃した、薩摩藩出身の大山(いわお)の妻となり、文明開化の鹿鳴館(ろくめいかん)時代――社交界の華となった。

 会津戦争において戦争遂行の責任者であった、首席家老の梶原平馬(かじわらへいま)の最初の妻で、大蔵の実姉でもあった二葉(ふたば)は、のち東京女子高等師範学校(のちのお茶の水女子大学)の舎監(しゃかん)(寄宿舎の管理・監督者)として、女子教育に尽力している。

 明治女学校創立者となる巌本善治(いわもとよしはる)の、妻となる若松賤子(しずこ)も会津藩子女で、彼女は『小公子』を翻訳し、女流文学者として名をなした。教育者だけではない。

 会津の籠城戦から戦後にかけて、傷病者の看護、戦災孤児の救済にあたった女性には、瓜生岩子(うりゅういわこ)があり、彼女はのちに福島・東京で社会事業のパイオニアとなっている。

 同じ社会福祉の世界には、海老名季昌(えびなすえまさ)(旧会津藩家老)の妻リンもあり、会津戦争の影響もあって、戦後、アメリカへ移住した日本女性第一号のおけいも、会津の女性(ひと)であった。

 ――会津のみならず、男が意地や面子(メンツ)ではじめた戦争に巻き込まれつつ、その被害者となりながらも、懸命に男たちを助け、男顔負けの活躍をした日本女性は全国にいた。

 父や兄弟、夫、わが子、恋人――関わった男によって人生を大きく変えられながら、立派に生き抜いた女性は少なくなかった。

 大山捨松の留学仲間には、津田塾大学の創始者となる津田梅子(旧幕臣・西洋農学者・津田(せん)の次女)の姿もあった。

 会津を攻めた新政府軍の側にも、心ならずも将軍家に嫁いだ悲劇の女性、天璋院(てんしょういん)(前名・篤姫(あつひめ))や静寛院宮(せいかんいんのみや)(前名・和宮(かずのみや))の二人がいた。

 激動の時代をたおやかに、それでいて力づよく生き抜いた日本女性は、それこそ星の数ほどにいた。明治を、女性が抑圧された時代だった、といい切る人がいるが、筆者はそうは思わない。少なくともひたむきに、前向きに生きた彼女たちの表情、言動には、新しい時代を自ら切り拓こうとする強い意志、思いが感じられた。

 ようやく白みはじめた日本の夜明け、そこに吹いた一陣の朝風、あるいは一刻(いっとき)の“虹”であったかもしれないが、彼女たちは自らの人生を輝かせ、女性がつづく道を開拓し、男尊女卑の風土の中、決して屈託がなかった。こわいもの知らず、といえたかもしれない。

 しかし、間違いなく彼女たちが、新しい日本の一翼を担ったのである。

 男たちがはじめた、感情論から勃発した戦争――その代表例として幕末の戊辰戦争を、会津藩を中心に検証しながら、できるかぎり、その非常事態に巻き込まれた日本女性を、幕末と明治の(ちまた)から(すく)いあげ、毀誉褒貶(きよほうへん)塵芥(じんかい)を払って、正しく観てみたい――これが本書の目的である。ついては、目次を参照いただきたいが、第一章では会津藩を中心とした幕末の戊辰戦争を、第二章では新島八重の生涯を、第三章では幕末・明治の女性群像について、述べていきたい。

 あるいは本書は、平成二十三年(二〇一一)七月に刊行以来、多くの共感をお寄せいただいている、『戦国美女は幸せだったか』(ちくま文庫)の姉妹編といえるかもしれない。

 読者はおそらく、現代女性にも負けない力強い“個性”に、数多く出会うことになるだろう。

 そして、そこにご自身(女性の場合)や隣にいる方と似た女性(ひと)を見つけるに相違ない。

 本書を執筆するにあたり、多くの先学諸氏の研究成果を参考にさせていただいた。引用文ごとに、出典を明記するように心がけた。筆者の関連著作については、巻末に一覧をかかげている。

 また、このたびの執筆の機会を与えて下さった育鵬社教科書事業部長の真部栄一氏、同事業部の大島理氏に心よりお礼を申し述べる次第です。


 平成二十四年十二月吉日 東京・練馬の羽沢にて
加来耕三 
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:0文字/本文:2928文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次