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八重の虹〜新島八重と羽ばたく幕末明治の女性たち
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歴史
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藩祖にして名君・保科正之

『八重の虹〜新島八重と羽ばたく幕末明治の女性たち』
[著]加来耕三 [発行]扶桑社


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 まずは、幕末の会津藩の動きを深く理解するために、この藩の成り立ちについて、ふれておきたい。この藩は、かりそめの恋から生まれた、などといわれてきた。

 初代藩主は、江戸期を通じての“名君”として知られる保科正之(ほしなまさゆき)である。陸奥(むつ)国会津若松に入封、肥後守(ひごのかみ)を称し、会津藩二十三万石・徳川一門の大名として重きをなした。

 なぜ、かりそめの恋なのか。この保科正之の出生が、とかく世に隠蔽(いんぺい)された数奇なものであったからだ。彼は慶長(けいちょう)十六年(一六一一)五月七日、江戸は白銀(しろがね)に産声をあげた(幼名・幸松(こうまつ)、または幸松丸)。だがそこは、竹村助兵衛という武士の狭い家屋であり、この出産は世に祝福されたものとはいいがたかった。

 出産の報は夜のうちに、町奉行・米津勘兵衛(よねづかんべえ)のもとに届けられ、ただちに老中・土井利勝(としかつ)にもたらされたが、それを聞いた利勝はさぞ困惑したことであろう。なにしろ、生まれたこの赤子の父親は、ときの将軍(二代)徳川秀忠であったのだから。

 利勝がこのことを(ただ)すと、
「覚えがある」

 と、秀忠はあっさり認めた。

 そして、(あおい)の紋付の小袖を利勝に遣わし、わが子へ与えてくれ、と頼んだ。しかし秀忠は、ついにこの幸松との、正式な親子の対面を行わなかった。

 一説には、秀忠の御台所(みだいどころ)=正妻・於江与(おえよ)の方((ごう)(おくりな)崇源院(すうげんいん))が怖くて、公にできなかった、といわれている。於江与は、戦国の覇者・織田信長の妹で、絶世の美人と伝えられるお市の方の三女にあたった。父は、戦国大名の浅井(あざい)長政。長姉は“天下人”となった豊臣秀吉の側室・淀殿(よどどの)であり、次姉は源氏の名門・京極高次(たかつぐ)の正室となっていた。

 秀忠より六歳の年長でもあるこの御台所は、嫉妬心の強い女性であったといわれ、夫には側室を置くことを許さなかったという。

 ところが、秀忠の乳母付きとして大奥に奉公へあがっていた、元北条家の家臣・神尾伊与(かみおいよ)の娘=お(しず)を、秀忠はつい見初(みそ)めてしまった。かりそめの契りをお静と結んだものの、於江与の方の怒りを恐れて秀忠は、最初の懐妊のときは子の中絶を命じたという。

 幸松は、お静が二度目に身ごもった子であった。再び、闇から闇へと葬られるところを、お静の実家の神尾家、姉の嫁ぎ先である竹村家がお静を(かくま)い、どうにか出産に漕ぎ着けたのである。

 生まれはしたが、幸松はいわば日陰者のように、その存在を世に知らされることなく育てられた。おそらく秀忠は、将軍家の血筋が忽然(こつぜん)と現れることによる、世の動揺を(おもんぱか)って、父子の正式な対面を決断できなかったのであろう。

 幸い、幸松を後見してくれた見性院(けんしょういん)信松院(しんしょういん)姉妹(いずれも武田信玄の娘)のはからいで、信州高遠(たかとお)二万五千石の藩主・保科正光の養子に入ることになった。幸松、七歳のときのことである。戦国の名門・武田家滅亡後、徳川家に召しかかえられた武田家遺臣は少なくなく、正光もそうした一人であった。しかも彼の父・正直の室には、家康の同母妹が入っていた。多少は、養子先決定に作用したかもしれない。

 正光は、将軍秀忠の許しを得て幸松を引き取り、秀忠は養育料として保科家に五千石を加増している。寛永(かんえい)八年(一六三一)十月、養父の正光が死去。十一月、元服して名を「正之」と改めた幸松は、養父の遺領を相続した。翌年、秀忠が(こう)ずる。

 ――名実ともに、正之の異母兄・三代将軍家光の治世となった。

 家光は正之の存在を知らされていなかったが、父の死の直前、人伝(ひとづて)に異母弟のいることを聞かされており、寛永十一年三月に兄弟の対面を行った。

 将軍家光は、あくまで高遠藩主として分を越えない正之の謙虚な言動、謹直な性格を好ましく思ったようだ。多分に、別の同母弟=駿河(するが)大納言忠長(ただなが)傲慢(ごうまん)無礼な人柄と、比較してのことであったろう。忠長は家光が正之と対面する前年に幽閉され、切腹させられていた。

 寛永十三年七月、正之は出羽山形二十万石へと移封を命じられる。大抜擢といってよい。

 将軍家光の実弟正之への信任は、なおもつづいた。

 正之は幕政への参与を命じられ、寛永二十年七月には、ついに会津二十三万石、預り領五万石をもって、実質二十八万石の大大名に移封される。この石高については、“御三家”の水戸徳川家が二十八万石(のち三十五万石)であった点を考慮しての処置であったかと思われる。

 臨終のとき、家光は正之ひとりを病床に呼び、
「将軍家を頼む」

 と告げて、この世を去った。

 慶安(けいあん)四年(一六五一)四月、家光の享年は四十八であった。

 十一歳の世子家綱が、四代将軍に就任した。家綱の元服に際しては、正之が烏帽子親(えぼしおや)をつとめたが、彼は自分の立場に()れず、実直に兄の遺言を守りつづけた。

 ときの幕閣は、大老・酒井忠勝が最年長で六十五歳。ついで元老ともいうべき譜代筆頭の井伊直孝が六十二歳、老中の松平信綱が五十六歳、同じく阿部忠秋は五十歳。新たに老中に加わった松平乗寿(のりなが)は五十二歳。正之はこのとき、最年少の四十一歳であった。

 この集団指導体制をもって、彼らは幕藩体制の総仕上げを担当する。

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