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八重の虹〜新島八重と羽ばたく幕末明治の女性たち
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歴史
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「会津藩家訓」

『八重の虹〜新島八重と羽ばたく幕末明治の女性たち』
[著]加来耕三 [発行]扶桑社


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 武断から文治への政策転換――なかでも“寛文(かんぶん)の二大事業”といわれた、殉死の禁止と大名証人制の廃止は、その後の、徳川二百六十五年の長期政権の(いしずえ)になった、と評価されている。

 正之ら幕閣はまず、末期(まつご)養子の制度に改正を加え、世にあふれた牢人対策=これ以上、大名の改易が出て牢人が発生しないよう、抜本的な改革を行い、ついで主君の死に殉じて死ぬ風習を、幕命をもって禁止した。大名証人制度とは、俗にいえば人質のことであり、これを廃止することによって、幕府と大名の意思疎通をはかろうとしたのである。

 なかでも、殉死の禁止を強く主張したのは保科正之であったとされている。

 正之は朱子(しゅし)の『殉葬論(じゅんそうろん)』を読み、殉死が元来は夷狄(いてき)の弊風であることを悟り、すでに寛文元年(一六六一)の時点で、会津藩においての殉死の禁を実施していた。

 幕閣は順次、入れ替わっていったが、正之は将軍家綱の後見として幕閣にありつづける。

 この間に慶安四年(一六五一)七月、由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱が起きたが、幕閣は(かなえ)の軽重を問われることなく事件を終息させている。明暦(めいれき)三年(一六五七)正月に、江戸で起きた振袖火事(明暦の大火)の後始末にあたって、江戸城の天守閣再建を断念する英断も、正之が下したという。

 寛文九年四月、正之はようやく隠居することを幕府に許され、幕政の一線を退いた。足掛け二十三年、彼は江戸にありつづけたことになる。

 隠居の前年、寛文八年四月に正之は「会津藩家訓(かきん)」十五ヵ条を発表した。

 とりわけ、第一条は有名である。


 一、大君(将軍)の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国(諸藩)の例を(もっ)て自ら()るべからず。()し二心を(いだ)かば、(すなわ)ち我が子孫に(あら)ず。面々、決して従うべからず。(原文は漢文)


 徳川将軍家に対しては、一心に忠勤を励み、他藩の忠勤ぶりをもって納得してはいけない。もし、徳川将軍家に叛意を抱くような藩主が現れたならば、そのようなものはわが子孫ではないから、家臣一同は決して従ってはならない、と正之は言い切ったのである。

 この時代の大名家の家訓で、これほど将軍家に対して忠義を烈しく説いた例はなかった。

 異母兄・家光への感謝の念、四代将軍家綱への忠誠心――正之は心底そう考え、この一条を述べたに違いない。藩主としても優秀であった彼は、藩士に好学と尚武の藩風を吹きかけ、ほとんど芸術的といえる、鮮烈な藩を創始した。

 だがそれは一面、徳川家康の血統の中で、最もすぐれた頭脳と政治手腕をもった正之だからいいえるものでもあった。世の中の動きはときに、想定外の非情さを要することがある。

 正之の遺訓はその後、会津藩をしばり、幕末においては藩士やその家族、領民に、生死隣り合わせた塗炭(とたん)の苦しみを味わわせることにつながってしまった。筆者は思う。正之は先の第一条を遺訓として、残すべきではなかったと。後世の人間として、残念でならない。

 一代の“名君”保科正之は、そうした幕末の会津藩の苦難など想像することもなく、天下泰平の寛文十二年十二月十八日、享年六十二でこの世を去った。

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