さて、会津藩保科家は、三代藩主・保科正容(正之の六男)の時代に、幕府から松平姓と三つ葉葵の家紋の使用を許された。名実ともに、徳川一門として遇されることになったわけだ。
そして会津藩松平家となり、正之から数えて九代目の藩主が、幕末の風雲に翻弄される松平容保となる。
容保は御三家の一・尾張徳川家の分家、高須松平家(三万石)当主・義建の六男であった。
当主の義建は子福者という以外、取り立てて才覚のない人であったが、その子たちは容貌が各々すぐれていたようだ。
尾張徳川家を継いだ次男の慶勝、慶勝の後を継いで尾張藩主となった五男の茂徳(のち一橋茂栄)、伊勢桑名藩松平家を継いだのち京都所司代に任じられ、容保とともに幕府の枢要を担った七男の定敬、生家を相続した八男の義勇など、幕末史にその足跡を残した者が多い。