幕末史を検証していくと、会津藩が京都守護職を辞職するタイミングと同様に、積極的に時代のイニシアティブをとれた機会は、幾度もあったように思われる。
しかしながらこの藩は、その都度、不可解な中途半端さで、自らそのチャンスを放棄していた。それはまさに、この先に待つ会津戦争の始末を、明確に予想させるに十分なものであった。
慶応二年、幕府が強行した第二次長州征伐は、十四代将軍・徳川家茂の急死を契機として失敗に終わった。以降、幕府の勢威は低下する一方となる。これは、幕府を強く信任していた孝明天皇の崩御、幕府内に政治基盤の弱い一橋慶喜の十五代将軍就任、反幕府に舵を切った薩摩藩の暗躍といったことが、そうした情勢を後押ししていたといえる。