もっとも、新政府だけではなく、旧幕府も、奥羽越の諸藩も、鳥羽・伏見の戦い以後の政局を、各々の思惑で解決しようとした。
たとえば新政府は、奥州最大の仙台藩六十二万五千石に対して、
「其藩(仙台藩)一手ヲ以テ本城(会津若松城)ヲ襲撃、速ニ可奏追討之功旨御沙汰候事」
と、再三の命令を発していた(『仙台戊辰史』)。王命さえ下せば、奥州一の大藩である仙台も軽々と動く、との思い込みが新政府にはあった。
ところが、突きつけられた仙台藩にも、お家の事情があったのである。第一に凶作と蝦夷地防衛のための出兵、沿岸防備にも軍費は嵩み、藩も領民も疲弊の極に達していた。