――話を、八月に戻そう。
この頃には、庄内藩の奮戦をよそに、列藩同盟の敗勢は決定的となっていた。
リーダーをもって任じていた仙台藩は、中村藩相馬家の藩境の駒ヶ嶺を守るのが精一杯。とても他藩への、応援どころではなくなっていた。
一方の新政府軍は、八月二十一日には母成峠、翌二十二日には十六橋を突破し、会津城下の手前、滝沢峠まで進出し、野営している。二十三日の早朝には、会津若松城下に突入する勢いだった。
これに対して会津藩首脳陣は、滝沢峠に何らの防衛線も構築しておらず、中山口に地雷を敷設しながら、滝沢峠には地雷も埋めてはいなかったのである。