九月十四日、新政府軍はついに総攻撃を開始した。
とはいっても、諸藩連合の将兵が押し寄せるといったものではない。七ヵ所に設置された砲台から、約五十門の大砲が天守閣を中心に、城内へ集中砲撃されるという、苛烈なものであった。付近の樹木は折れ、石瓦は飛び、脚下の砂塵はあがり、
「百雷絶えず鳴動する如く」
城内ではそこここで、死傷者を刻々と増やしていった。
ただ会津藩も、四斤砲一門を護衛隊と共に豊岡(現・会津若松市城南町付近)に配し、小田山上の敵砲門十五と対峙させていたが、新政府側には最新鋭のアームストロング砲まであった。
このとき、会津藩の砲撃を指揮したのが、八重とその夫・川崎尚之助であったという。
新政府軍の総攻撃は九月十四日の早朝六時に始まり、夕刻の六時頃までつづけられた。