会津藩兵が帰城するまでの、八重の活躍は、さぞや目立ったものであったろう。
新島夫人が前夫(川崎尚之助)を助けて、会津落城の際に雄々しくも白鉢巻に白襷、薙刀脇に掻い込んで駿馬に鞭打って敵軍に進まれた様子は、(中略)恰度三つ四つの頃母の懐に抱かれて桃太郎、かちかち山の御話を何遍となく聞いた様に、幾度も繰り返し、お祖母さんから聞くのを無上の楽しみにして居りました。(『創設期の同志社』)
なにやら、籠城戦という現実を超え、美化されすぎて伝えられたようにも思われる。
「大砲を発する業、誤らず敵中へ破裂す。諸人目を驚かす。身にはマンテル(マント)を纏ひ、小袴を着け、宛も男子の如し」(『明治日誌』)
というのもあった。
おそらく八重は、マントを羽織ってはいなかったであろう。
そういえば、男装して、七連発の元込スペンサー銃を肩に担いで、颯爽と鶴ヶ城へ入城した二十四歳の彼女を、「幕末のジャンヌ・ダルク」と評するものを最近、見聞したことがある。
以前には、「会津の巴御前」というキャッチもあった。
その度に思うことだが、八重本人の写真や証言談の多数残る実在の女性評を、どうしてミスリードし、イメージ先行に勝手に押し出すのであろうか。すでに述べたように、八重は会津戦争のおり、すでに結婚している。間違っても、聖処女=ジャンヌ・ダルクではない。
なるほど、「巴御前」ならば現存している彼女の写真の、イメージともそれほどズレはないかもしれない。
また、彼女を“八重桜”とダブらせたい向きもあるようだが、これもいただけない。
先にもふれたように、八重は弘化二年十一月三日(新暦十二月一日)に生まれている。春ではない。その前の厳しい夏――それでも涼しげに咲いた、八重の石楠花から命名された可能性も高かったはずだ。“桜”と断定できる根拠は、どこにもなかった。
なお、籠城戦のおり、普通の女性が運ぶのに精一杯の弾丸入れの箱を、八重は二、三箱まとめて肩に担げたというから、力持ちであったのは間違いない。
体つきも、童話に出てくる金太郎のように勇ましかった。が、強い上に美しかった、といわれる巴御前に似ていたかどうか。写真は複数、現存している。
戦後、二人目の夫となる同志社創業者の新島襄は、アメリカの父ともいうべきハーディ(ハーディ商会の社主、ワイルド・ローヴァー号の船主)に宛てた手紙で、
「彼女は決して美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人(ハンサム・ウーマン)だということです」
と述べている。それだけで充分なのです、とも彼は語っていた。
また、明治八年(一八七五)三月七日付で、新島が大阪から父・民治に宛てた手紙では、自らの結婚相手について、
「小子(私)は決して顔面の好美を好まず。唯心の好き者にして学問のある者を望み申し候」
と書いていた。八重とめぐり合う、数ヵ月前のことである。
のちに同志社の学生として、八重と出会う徳富蘇峰(熊本藩出身のジャーナリスト)は、「新島襄先生夫人の風采は日(本)ともつかず、西洋ともつかず、いわゆる鵺のごとき形をなしており」と酷評していた。
その弟の徳富蘆花(小説家)にいたっては、小説『黒い眼と茶色の目』の中で、八重をモデルに「飯島多恵」を登場させ、次のように述べるのであった。
「其眼尻の下った目がよく姪の寿代さんに似て居る飯島先生の夫人のねちねちした会津弁」。また、「眼尻の下ったてらてらと光る赤い大きな顔と相撲取りの様に肥えた體」――云々。いささか、手厳しい。