司法省を影響下に置いていた江藤新平は、京都府参事(五等官)・槇村正直の小野組転籍事件を、長州閥弾劾に利用しようとした。“薩長土肥”といわれた新政府の主力四藩のなかで、肥前佐賀は薩摩・長州に比べ、「出遅れた」との思いが彼には強かったからだ。
換言すれば、薩長藩閥を討つことこそが、江藤の正義となっていた。
ことの発端は、日本屈指の豪商である小野組が、衰退する本拠地の京都から、一族の二人を東京へ、一人を神戸に、各々本籍を移そうとしたことから起きた。
京都府庁が、この転籍届に難癖をつけ、一向に認めようとしない。困惑した小野組は、明治四年の司法省達第十六号にある、「転籍を地方官が妨害したときは裁判所または司法省へ訴訟して苦しからず」との条項に則り、明治六年五月二十七日に京都裁判所へ「難渋御訴訟」をもって送籍を許してもらいたい、と訴え出たのである。