では、当時の同志社はどうであったのか。
新島先生を除けば、自余の環境は、予にとって頗る不服であった。当時の同志社は新島先生が校長で、その結社人が先生夫人の兄、山本覚馬翁であった。山本翁は会津藩の政治家で、維新大改革の時、会津が引挙げて京都を去った際に、そのまま居残って、遂に京都府の先達となったのである。翁は病のため明を失ったが、盲目に拘らず京都最初の府会議長に選任せられた人で、若干泰西的法制(ヨーロッパの法律制度)の知識もあったが、最も財政上の先見者として知られていた。京都の実業家の魁である、浜岡光哲、田中源太郎等は、みな翁の門人である。