いつの時代も、戦争をはじめるのは男である。
その一方で、前章の新島八重のように、男以上に勇敢に戦った女性たちがいて、また同時に、戦争に翻弄されつつも穏やかに耐え、自らの役割を敢然と果たした女性たちも存在した。
この第三章では、幕末・明治のそうした女性たちの代表的八人――天璋院(篤姫)、静寛院宮(和宮)、木城花野、大山捨松、津田梅子、陸奥亮子、瓜生岩子、おけい――について、以下、順番に述べていきたい。
往々にして、男たちは己れの面子・矜持を守るため、自らの生死も賭して開戦に踏み切る。
ところが、いったん敗け戦が重なると、最後は必ず尻窄みとなって、面子も矜持もかなぐり捨てて、生存のために降伏する。このとき、降参の名目にされるのが女・子供の存在であった。
戦争において多くの場合、犠牲を強いられるのは女・子供であり、それでいて彼女たちにはいかなる決定権もなかった。にもかかわらず、ときに男は女に泣きついて生命乞いの片棒を担がせることがある。女性にとっては、迷惑このうえもあるまい。
幕末、日本中を覆った戊辰戦争のおりも、慶応四年(一八六八)正月三日、「討薩の表」をかかげて颯爽と、鳥羽・伏見に開戦しながら、旗色が悪く、敗れて江戸へ逃げ帰った徳川慶喜(十五代将軍)が泣きついたのも、十三代将軍家定の御台所(正室)たる天璋院(篤姫)と十四代将軍家茂の御台所であった静寛院宮(和宮)――この二人であった。
結論から先に述べれば、この二人の貴婦人によって、江戸は戦火をまぬがれ、慶喜は死罪とならずにすんだのである。
天璋院と静寛院宮には、幸い「王佐の心」があったおかげ、といえる。
「王佐の心」とは、『近思録』に出てくる言葉である。
この書は、宋の朱子がその友人・呂祖謙と共同で選したもので、修身・斉家・治国・平天下の教訓を目的としたものであった。その中に、「王者を補佐して働く精神」という意味で、この言葉が語られていた。宋の名僧・程明道の言葉として、三国志の名軍師・諸葛孔明を指して使われたものである。
もとより、わが国の歴史の中にも、「王佐の心」をもった宰相・補佐役・軍師・参謀は数多いた。ただ、意外に注目してこなかったのが女性の存在であった。
女性という制限を設けた場合、不思議とトップの賢妻が、これに該当する事例が少なくなかった。たとえば、現代もそうかもしれない。豊臣秀吉の御台所・北政所――彼女は戦国乱世に生まれ育ち、秀吉と出会うことで天下人の妻となったが、その影響力は秀吉亡きあと、関ヶ原の戦いにも及び、北政所を味方につけて東軍を率いた徳川家康は、それゆえ天下を取れたといっても過言ではなかった。
前田利家や山内一豊の妻なども、内助の功でもてはやされてきた。
彼女ら戦国女性に比べて、あまり知られていない幕末の女性の補佐役として、筆者はもっとも過酷な使命を遂行した、前述の二人の女性をまずは述べたい。
一人目が徳川幕府十三代将軍家定の御台所となった、篤姫である(のち天璋院)。
この女性は、幼名を一子といい、於一と呼ばれた。薩摩藩主島津家の分家の姫であり、十一代藩主・島津斉彬の養女となって、一時は「篤姫」と称したものの、公卿筆頭の近衛家の養女となり、すぐに敬子と呼ばれ、“篤君”と仰がれつつ、将軍家定の御台所となっている。
――この婚姻、これまではさも、政略結婚のようにいわれてきたが、実は家定本人の意思により、幕閣から島津家に申し入れたものであった。
かつて十一代将軍・徳川家斉の御台所に、「茂姫」がいた。
篤姫と同じく、この女性は薩摩藩主島津家の血縁者=第八代藩主・重豪の娘で、生涯に多くの子をなし、大名、あるいはその夫人に、子孫を増やした功労者でもあった。
家定はそのことを知っていて、ぜひにもその血脈者を、と島津家に己れの妻を乞うたのであった。幕末とはいえ、まだ幕府は盤石としていた嘉永三年(一八五〇)のことであり、この時点で家定はすでに、二人の妻を失っていた。
ともに公卿の姫であり、それゆえであったかどうか、二人共に体が弱かった。
まだ、世子の立場であった家定は、何としても体の丈夫な後添いを迎え、将軍家を絶やさぬよう、祈るような気持ちで、まだ藩主になっていなかった世子・島津斉彬に、この話を持ちかけ、紆余曲折の末、選ばれたのが篤姫であった。
ちなみに、この斉彬が手塩にかけて育てた逸材が、のちに新政府軍の総参謀となる西郷隆盛である。彼は相撲取りのような体躯とは正反対に、きわめて繊細な人物で、算盤を得意としていた。篤姫の婚礼品選びの、役人もつとめている。