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八重の虹〜新島八重と羽ばたく幕末明治の女性たち
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歴史
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「薩摩おごじょ」と困難な夫

『八重の虹〜新島八重と羽ばたく幕末明治の女性たち』
[著]加来耕三 [発行]扶桑社


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 もとより篤姫は、結婚するまで、夫となる人の顔を一度も見ていない。それが当時の、武家の婚礼一般であったともいえる。

 家定も篤姫を見てはいなかったが、越前福井藩主・松平春嶽は十九歳年上の斉彬のもとを訪ねたおり、その人柄を聞いていた(『松平春嶽全集』所収「閑想秉筆(かんそうへいひつ)」)。

 それによれば、斉彬の言葉から受ける篤姫の印象は、今日に伝えられる「薩摩おごじょ」のイメージそのままであった、といってよい。

 生半可な男の及ばぬ忍耐力を持ち、決して怒りを顔に表すことがない。不平や不満はことごとく腹の中にしまい込み、これを破裂させることがなかった。腹がすわっている、ということであろう。軽々しいところはないが、笑みは絶やさず、人に接するのも誠に上手だという。

 なるほど、こういう女性は将軍、とりわけ問題のある家定の、夫人には相応(ふさわ)しかったかもしれない。なにしろ家定は、幼少より体が弱く、正座もおぼつかないほどの人物であったとか。常に首を後方へ振る病状を呈し、体をときおり痙攣(けいれん)させた。いずれかに、障害があったのかもしれない。

 のちに日本へやって来た、アメリカの公使ハリスは、将軍家定と謁見した際、
「(彼は)短い沈黙のあと、自分の頭を左肩を越えて大きく後方へぐいと()らしはじめ、同時に、右の足を踏み鳴らす動作を三、四回とくり返した」

 と述べている(『日本滞在記』)。

 しかしその後、よく通る声でしっかりと、歓迎の言葉を述べた、とも。

 替え玉がどこかに隠れていたものか、それとも知能そのものには問題はなかったのだろうか。

 父の将軍家慶(いえよし)(十二代)が病に倒れると、家定は毎日、自ら粥をつくって父に食べさせたというが、興味深いのは、障子に穴を開け、父が己れの料理を食べる姿を、こっそり(のぞ)()し、一人(えつ)に入っていたという点である。

 ほかにも鵞鳥(がちょう)を追い回して、キャッキャッと(よろこ)んだとか、刀剣を抜いて家臣を脅かしたとか、とても成人した、まともな将軍がするはずのないことを、彼はやってのけたという。

 当然のごとく、女性との性交渉ももてない。困難な夫といってよかった。

 もし、これが泰平の時代なら、篤姫に求められたのは母性そのものであり、いわば将軍家定の日常を保母として支えることに終始したかもしれない。ところが、二人が結婚する安政三年(一八五六)十二月――その三年前の六月に、ペリーが日本へやって来た。

 この来航によって、日本は本格的な幕末動乱の中に投げ込まれることになるのだが、この極めて難しい政局の中で、ペリー来航後、十九日にして、将軍家慶が急死(六十一歳)。家定はそのまま多難な国際情勢の渦巻く中、将軍となった。このとき、三十歳である。

 篤姫はときに、十九歳であった。

 開国か攘夷かで揺れはじめた幕府の情勢の中、ようやく結婚したものの、二人の新婚生活はわずかに一年半しかもたなかった。篤姫は母になる機会にも恵まれないまま、将軍家定の急逝で二十四歳にして未亡人となり、出家して「天璋院」の法号を持つこととなる。

 つまり、家定の求めた血脈を絶やさず、子孫を増やしてほしい、との願望は、ついに実現しないまま、幕を閉じたわけだ。本来なら、歴代将軍の御台所の一人として、その後も平穏な人生を送り、おそらくは日本史に特筆して書き留められることもなかったに違いない。

 それが、“幕末”という動乱の時代背景の中、天璋院は幕府の一方の権力=大奥を代表する立場の女帝として、歴史の表舞台に再び登場することになる。

 養父斉彬より、将軍家定を説得して、英名高い一橋慶喜(のち徳川)を次期将軍職につけるように工作せよ、との密命をおびながら、篤姫はこれを実現することができなかった。

 大奥工作で苦心していた篤姫は、なかなか家定と直接、話すきっかけが掴めず、思いあまって家定の母・本寿院に相談したという。

 ところが、このころ大奥では、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の好色ぶりが喧伝(けんでん)されており、一方で倹約家としても彼は嫌われていた。当然の如く本寿院は機嫌を悪くし、慶喜が水戸藩主家の出というだけで大奥は嫌っているというのに、薩摩守(斉彬)までがそのようなことをいうとは、と立腹した。それでもめげず、篤姫はついには将軍家定とも直接、話したようだ。

 将軍は彼女の話をよく聞いてくれたが、さすがに返答はなく、それを知った本寿院からはまた、篤姫は叱られたという。

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