和宮の四年有余の結婚生活のうち、江戸城で家茂が起居をともにしたのは、およそ二年六ヵ月ばかりにすぎなかった。家茂の死去が大奥に伝えられたとき、和宮は歌を詠んでいる。
空蝉の唐織ごろもなにかせむ
綾も錦も君ありてこそ
江戸出発のおり、“私”の和宮は凱旋の土産に、西陣織の織物を夫・家茂に所望したという。その「織物一反」が、夫の遺骸と共に、手元に届いたというのだ。前の和歌は、あまりの素晴らしさに、後世の偽作だとの説も出た。
――実は和宮は、夫を失った前後に、母と兄をも失っていた。
家茂の死去する約一年前、慶応元年(一八六五)八月九日、母・観行院(橋本経子)が死去しており、さらに翌年十二月二十五日、兄の孝明天皇が崩御する。