十五代将軍慶喜の誕生を、ともに出家した天璋院と静寛院宮(和宮)は了承した。
だが、その慶喜は大政を奉還し、さらには王政復古のクーデターを朝廷に仕掛けられるや、鳥羽・伏見の戦いを決断。あげく敗れて、逃げ帰ってくることとなる(第一章参照)。
官軍となった薩長軍=新政府軍と戦争しても益なし、と判断した彼は、徳川家が「朝敵」の汚名を着せられることだけは避けるべく、恭順の意を表することを第一と考えた。
そのため慶喜は、江戸に戻ったその足で、静寛院宮と天璋院に面会を求めている。徳川家存続のため、朝廷に対する嘆願書を書いてくれるように、と懇願するためであった。