ところが、今度はそこへ会津戦争の戦禍が襲いかかってくる。
岩子はこのとき、すでに四十歳になっていたが、臆することなく、戦火の中を負傷者の手当てや炊き出しに奔走した。戦後、疲れ切って喜多方に戻った彼女は、焦土と化した若松からこの地へ逃れてきた、多くの婦女子・難民と出会う。皆が、飢えと寒さにふるえていた。
岩子にとっては、これが他人事には映らなかった。これまでの苦しかった生活が、思い出されたのであろう。彼女はわが家は無論のこと、近隣近在に働きかけて、被災者の衣食住の便宜を懸命に図った。病気のものへの手当ても、老人へなぐさめの言葉をかけることも、わが身の寝食を忘れて行い、奉仕したといってよい。