会津若松は、暮しに節度のある、古きよき日本が息づく町である。
その平穏な城下町へ、会津戦争のおりには、新政府軍が最大で三万人を投入して、攻めかかった。それはまるで、二百六十五年つづいた幕藩体制への積憤を、一気に爆鳴するような有様であった。
迎え撃つ会津藩は、城内に四千。城外に二千の、合わせて六千。その兵力は、新政府軍の五分の一にすぎなかった。
ふり返れば慶応四年(一八六八)九月四日、仙台藩と並んで列藩同盟結成の推進役を果たした米沢藩が、まさかの降伏。その米沢藩の呼びかけで、仙台藩が降参したのは、「明治」に改元されたのちの、九月十五日のことであった。
ついでながら、戊辰戦争は日本で最初の、本格的銃撃戦が行われた戦いでもあり、新政府軍は薩摩藩だけで二万五百三十二丁、これに長州・土佐・肥前佐賀の三藩を合わせると五万一千丁の銃があり――これに対する会津藩は、わずかに二千九百八十一丁をもつにすぎなかった。
しかも、その性能が段違いに低く、会津藩のものは旧式の火縄銃が多く、雨が降ると使いものにならなかった。様式として藩士装備の大半を占めたゲベール銃は、先込めの鉄砲で銃身に施条(螺旋状の溝)がなかった。飛距離も伸びず、命中率も悪い。
一方の新政府軍は、旧式でもゲベール銃の威力数倍という、元込式のスナイダー銃をもっていた。最新式のスペンサー銃にいたっては、七連発というすぐれもの。会津方が一発撃つ間に、新政府側は数十発を撃てたことになる。
西洋流砲術を熟知していた山本八重は、心中、この差をどのように理解していたであろうか。その彼女も含め、女・子供・老人が会津藩士たちとともに、兵力、武器の性能が隔絶していた新政府軍を向こうにまわして、それでも、籠城戦一ヵ月を耐えた。
会津藩が、ついに降伏したのは九月二十二日のこと。その翌々日には、秋田領に攻め込んでいた南部藩も降伏。そして九月二十六日、勝ちつづけていた庄内藩も秋田領から撤退して、降参を申し入れた。ここに四ヵ月余に及んだ、奥羽越列藩同盟は完全に瓦解した。
この戊辰戦争=奥州戦争は、東北全体において、武士階級の没落を決定づけたといってよい。無論、八重の人生も、彼女が知るすべての人々の生き方も一変した。
戦いそのものは、わずか四ヵ月余にすぎなかったが、この戦争の特徴は、むしろ敗戦後にこそあった。十二月七日、奥羽越列藩同盟の処分が発表される。
会津藩主の松平容保・喜徳父子は、死一等を減じられて永預、藩は滅藩となった。
仙台・庄内・南部(盛岡)・二本松・棚倉・長岡の六藩は、いったん封土を没収され、藩主の交代を命ぜられたうえで、削封となる。米沢・上ノ山・一ノ関・松山・福島・泉・天童・亀田・湯長谷・八戸などは、藩主の交替と削封・転封を命じられた。
官軍と賊軍の区分け、新政府における東北への弾圧、軽視、無視、そして後進地としてつづく東北の長い長い歴史が、ここからはじまる。
そのきわめつけが、
「白河以北一山百文」
という言葉であった。
白河の関を越えて北の地域は、いずこも二束三文なのだという。
列藩同盟に参加した各藩の藩士たちは、一応に武士としての矜持と面子を失った。それに拍車をかけたのが、大幅な減封処分であったろう。
会津藩は二十三万石から三万石(実収七千五百石)となり、本州最北端の斗南(現・青森県下北方面)に島流しならぬ“陸流し”に処せられてしまった。土地は火山灰の不毛地か、泥炭地に葦の生い茂る低湿地帯のみ。水の便が悪く、冷害が頻発する最悪の地の果てであった。
仙台藩も六十二万石を二十八万石に削られ、多くの藩士は帰農するか、新天地を求めて蝦夷地=北海道に渡るかを選ばなければならなかった。
彼ら藩士にも妻があり、子があり、父母があった。裸一貫、無一文で多くの武士の家族が、賊軍の汚名を着せられたまま、近代社会=明治時代に投げ出されたのである。
八重もその一人で、兄・覚馬と再会することがなければ、のちの新島襄との出会いもなく、おそらくは後世にその名を知られることのないまま、ひっそりとこの世を去っていたに違いない。“虹”のように輝いた女性たちも、多かれ少なかれ“運”によって導かれ、浮上し、歴史に名を刻むことになった。
“運”といえば、会津や仙台と異なり、同様に列藩同盟軍の盟主であったはずの米沢は、極めて軽い処分で済んだ。十八万石が四万石のみ削られて、十四万石となったのみである。「諸賊ニ先チ悔悟自ラ督府軍門ニ出、謝罪哀訴」し、一転、新政府軍の先鋒をつとめた行為が、情状酌量され、評価されたという。
さらに明治二年(一八六九)五月には、各々の藩主にかわって、「叛逆主謀」の罪により、主だった藩重役たちが、その責任を負わされた。会津藩では萱野権兵衛、仙台藩では
但木土佐、
坂英力、南部藩では
山佐渡などが、次々に処刑されている。
東北地方を裁いた薩長藩閥政権は、その後も明治国家の中枢に君臨した。
天子様は天照皇太神宮様の御子孫にて、(中略)日本国の父母にましませば、御敵対いたし候ものは大名といえども、一命を御とり遊ばされ候てもいささか申し分なき筈に候えども、誠に叡慮寛大にして、右様不心得のものあるは全く教化の行き届かざる故と、もったいなくも御かえりみ遊ばされ、会津の如き賊魁すら命を助け給い、そのほか荷担の大名は、わずかに減知所替えなど仰せつけられ、家も知行も結構立て下され候は、此上なき御慈悲ならずや。(大正十五年『青森県史』五巻所収)
東北地方の人々が、薩長藩閥政権と和解をするのは、先に少し述べた日清戦争が一つの契機であったように思われる。日本国の存亡が問われた、外戦であった。
八重もこのおり、看護婦として広島で救護活動にあたり、のちにその功労と慰労により勲七等宝冠章を下賜されている。
もともと第二の明治維新をめざしたのが奥羽越列藩同盟であったが、その代役をつとめたのが日清戦争であったように、筆者には思われてならない。
――ふと、会津藩最後の首席家老となった、梶原平馬のことを想った。
彼の先祖は、今なお毀誉褒貶のある梶原平三景時(源義経を失脚させた人物)であるという。
幻の東国政権=「北部連邦政府」構想を梃子に、会津藩の窮状を救い、あわせてもう一度、“御一新”をやり直そうと目論んだこの人物は、会津籠城戦ののち、どのような生涯を送ったのであろうか。
彼は慶応三年正月に、二十六歳で藩政のトップに立った。が、それは同時に家族の崩壊を意味することにつながってしまう。
梶原の妻・二葉は、第三章でみた山川咲子(のちの大山捨松)の長姉にあたる。三歳年下の山川大蔵も、十二歳年下の健次郎も、梶原のことを実の兄のように慕っていた。
夫婦の間には、慶応二年十一月十六日、一人息子の寅千代が生まれている。梶原が壬寅の生まれであったから、この年=丙寅は二まわり下った寅年となる。天下泰平の時代ならば、彼は平穏な人生を送れたであろう。だが、二十六歳で首席家老となったこと自体が、非常事態を物語っていた。
多忙を極めた梶原は、息子のお七夜にも加わることができず、妻との間に溝を生じ、子をなした翌年の三月には、妻・二葉を離縁することとなる。
もし、彼が首席家老にならなければ、一家の別れはなかったに相違ない。
一方、京都守護職をつとめる松平容保のかたわらにあらねばならない梶原は、水野謙吉の次女・テイを身近に置いていた。
テイは嘉永二年(一八四九)の生まれで、離縁した二葉より五歳の年少となる。
会津鶴ヶ城において、政務総督としての重責をになった梶原は、落城後、幽閉生活を送り、明治二年十月には、旧会津藩士を代表して、主家の再興を新政府に嘆願。同四年に釈放されたのちは、青森県庁の庶務課長に就任したようだ。しかし、二ヵ月ほどで辞任すると、後妻として迎えたテイと共に蝦夷地=北海道へ旅立っている。
会津の人々は、意識してこの人物にふれまいとした。
「――北海道のどこかで、のたれ死んだらしい」
と、突き放した。
しかし、彼は生きていた。「梶原景雄」と名を変え、明治の世を生きつづけ、晩年は根室に移り住んで、明治二十二年三月二十三日にこの世を去っていた。享年四十八。根室市西浜町の、市営墓地に葬られている。彼は再び世に出ることなく、会津戦争の責任者としての十字架を背負ったまま、何も語らずにこの世を去った。
その無念を補うように、「平成」に入ってから、妻テイの後半生が明らかとなった。
「私立根室女子小学校長水野貞事跡」(『根室市博物館開設準備室紀要』第七号所収)に拠れば、貞は旧姓「水野」を名乗り、根室に至る以前、函館の相生町(現・元町周辺)に住んでいたという。この地には旧会津藩士の入植者が多く、梶原の部下であった雑賀孫六郎もいた。
雑賀の妻・浅子は、会津藩家老をつとめた簗瀬三左衛門の娘であり、その妹・ツヤは内藤介右衛門(梶原平馬の実兄)の妻でもあった。
梶原とテイは、ここで暮らしていたかと思われる。
そのテイが、水野貞として根室の花咲小学校の教員に着任したのが明治十五年。同小学校を退職したのが、明治二十三年であった。夫の死と、何らかの関係があったのだろう。二人の間の子供には、シツエと文雄という姉弟がいたようだ。
病床にあったと思われる梶原の看病をしつつ、貞は私塾を開いていた。「梶原平馬」は、この妻と二人の子供に看取られながら、この世を去ったのだろう。
その後、貞は私立根室女子小学校の校長となっている。
そういえば、梶原と別れた二葉も、東京女子高等師範学校の舎監をつとめていた。義弟の山川健次郎は東京帝国大学、京都帝国大学の総長をつとめ、義妹の山川咲子は大山巌夫人・大山捨松として、親友・津田梅子の女子教育をバックアップしつづけた。新島八重しかりである。
彼女たちは、教育こそが藩閥政治に対抗できる最後の砦であることを、「賊魁」とまで蔑まれた環境の中、必死の思いで認識していたのかもしれない。
しかし、明治の教育が普及し、日本が一つになって日清戦争を戦っても、東北の劣勢はそれでもなおつづいた。完全に解消されたのは、大正七年(一九一八)ではなかったろうか。
この年、原敬内閣が成立した。彼は明治維新以来つづいた薩長藩閥政権に代わり、日本最初の政党内閣を組織する。
原は南部藩家老加判(家老と同等の要職)の家に生まれ、十四歳で奥州戦争を体験していた。
南部藩が実際に武力出兵に踏み切ったのは、家老・

山佐渡が京都から帰藩した七月十八日以後、月末に至ってからで、実質的には数週間しか列藩同盟軍側には加わっていなかった。
当然、輝かしい戦功もない。にもかかわらず、同藩は二十万石から七万石も削られ、十三万石になってしまった。
大正六年九月、その南部=盛岡で戊辰戦争殉難者五十年祭が挙行され、当時、政友会の総裁であった原は、祭主然として式典に臨席した。自らの俳号を「一山」とした彼は、この日の感慨を次のように、日記に書き留めている。
顧るに昔日も亦、今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり。其真相を語るものなり。今や国民聖明の澤に浴し此事実天下に明かなり、諸子以て瞑すべし、余偶々郷に在り此祭典に列するの栄を荷ふ。乃ち赤誠を披瀝して諸子の霊に告ぐ。
なるほど、アメリカの場合、南北戦争で敗れた南部から、合衆国大統領が出るのはカーター(第三十九代大統領)を待たなければならなかった(第三十六代のジョンソンは、ピンチヒッターである)。この間、百十年を費やしたことを思えば、日本は五十年で済んだ、ともいえる。日本のほうが、南北の融和はまだ少しはスムーズにいった、と負け惜しみをいえなくもない。