明治の元勲たちはこの点を認識していたのか、決してイギリスを模範として学校制度を組み立てようとはしませんでした。最初はフランスを模倣して、8つの大学区の下にいくつかの中学校区、その下に多くの小学校というシンプルな学校制度を作ろうとしました(学制:明治5年公布)。しかし、日本の実情に合わないと判断し、教育令(明治12年)、学校令(明治19年)と変遷を重ねて、明治の末頃に一応の完成をみました。変遷を重ねるほどにヨーロッパ大陸型の複線型学校体系へと形づくられていくのですが、これは小学校よりも上級の学校に進学したいという庶民の思いと、列強に伍するためには国民の能力向上が不可欠という明治政府の判断が合致したからだと思われます。